秋葉原とプロトコルと悲哀について

シャッチョさんとの会談を終えたリアルアンパンマンが、目の周りに広大な熊牧場をこしらえて帰ってきて、当然、与太話に花が咲いたわけだが。

「秋葉原の事件の話を振ったら、「テレビは見ない。というかない」って言われちゃってさあ。テレビは2年位前に捨てたんだって」
-テレビなしでなにやってんですかね。Webすか?
「んー。ニュースはそうみたい。「Webで3行くらいのコトを何十時間もやってるし」とか言ってた。テレビ見ないで本を読んでるみたいだよ」
-本ねえ。まあ、こちとらゲラ読みで活字はお腹いっぱいになっちゃうからなあ。
「帰ったら、とりあえずテレビ点けちゃうもんなあ」
-あー。おれもそうだなあ。テレビは中心を見ちゃダメなんですよね。今は。中心じゃなくて周辺を見る。そこが一番面白い。
「バレーボールの泣いてる小学生とか」
-それは知らないケド。
「男子が勝ったときに、小学生が一人前に号泣してて、監督が崩れ落ちてマケボノ状態になったシーンよりも、なんかココロに残ったなあ。わー、イッチョ前に泣いてる! とか思って」
-わはは。最近の周辺で一番だったのは“要するにおじさん”かな。厳密には、あれは周辺じゃないけど。
「秋葉原のインタビューでしょ。見た見た。見ながら「そこは“要するに”じゃないだろっ」とか突っ込んでた」
-あーゆうのがあるから、テレビは見ちゃうんだよねー。

というわけで、ひとしきりテレビの話題で盛り上がったわけだが、結局のところ、この歳になるとテレビそのものが楽しいのではなくて、テレビを媒介に互いの視点の細かい差異や、零れ落ちて忘れ去られるべきポイントを指摘しあうことで共通のナニカを確認しあってるだけなんだよね。わしら。

つまり、プロトコルがテレビなだけで、それは別に本だってかまわないし、映画だって絵画だってイベントだってかまわない。それこそ、2ちゃんねるとかニコ動とかはてな村とか、あるいは.NETとかJavaとかRubyとかHaskellとか、もっと大きくインターネッツとかでもかまわない。

共通のプロトコルで他と接続できれば、それだけでかなりうれしいことだし、接続を絶やさないようにするためにもプロトコルの上に乗っかるコンテンツは豊富なほうがいい。というわけで、炎上物件は絶えないし、重箱の隅的コンテンツは消えては浮かび浮かんでは消えてゆくと。

それがインターネッツのおかげで非常に短期間で視覚化できるようになったというのは、しかし喜ぶべきことか悲しむべきことか、やや迷うな。

いずれにしても、「テレビはない」と通信を拒絶されたリアルアンパンマンは、「そうですよねえ。同じですもんねえ」と優良サラリーマン的回答をして帰ってきたというあたりに、たしかな悲哀を感じたわけでございます。

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