暮らしが消えた世界の「暮らしの手帖」

1948年の創刊以来、総合生活誌として発行を続けてきた老舗雑誌「暮しの手帖」(暮しの手帖社刊)が新編集長を迎えるにあたり、リニューアル第1号の発売を記念したトークイベントを渋谷パルコの書店内で開催する。

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最新号では電化製品や日用品などを誌面上でテストする定番企画「商品テスト」をはじめ、作家・立原道造(1914-1939)の論文に登場する「ヒヤシンスハウス」の特集、味噌汁・おにぎりの紹介記事などを掲載する。

「暮しの手帖」新編集長に中目黒・古書店オーナー、イベントも」(ヘッドラインニュース/シブヤ経済新聞)

母親が買ってくる「暮らしの手帖」を、彼女が読むよりも早く読了していたのは、今にして思えば、おそらく花森安治のレイアウトが心地よかったからだと思う。だって、そこで取り上げられているテーマはほとんどおれの半径3メートル内には存在しなかったからね。

たとえば冷蔵庫や洗濯機といったシロモノを調査/検証する記事は、その検証過程や結果よりも、対象物品の写真やその配置、そして物品が持っている本質的な美しさに惹かれて読んでいたんだと思う。

あの雑誌は、「美しい暮らしの手帖」という誌名どおり、暮らしを“美しくする”ことがすべてだったわけで、だから記事で低い点をつけられた商品も、均しく美しく見せてるという姿勢が、子供心にも気持ちよかったんだろうな。

その姿勢は「室内(旧木工界)」も同じで、要は、

商品を使うのは、さまざまな歴史(や文化)をもったいろいろなヒト

という視点に帰着するような気がする。

洗濯っちゃー洗濯なわけで、そこに必要なものは限られるし、炊飯器っちゃー炊飯器なんだよね。それを使うにあたって、各自が背負っているさまざまな文化の差異を低減するか、これまでの手法以上にキレイに(あるいは美しく)なるか、を提示してきたわけで。

まあ、裏を返せば「使うヒトはそれほど大差ない」ということになるんだろうけど。

では、イマはどうかというと、……正直どうなんだろうね。相変わらず下水管に目鼻で大差ないような気もするし、そもそも“暮らし”って、まだあったっけ、てな感じがする。

なんつったってニンテンドーDSのレシピで肉ジャガ作って、それが“おふくろの味”なんだから。コンビニゴハンが家庭料理より浸透していて、おいしい家庭料理は高い金払って店で食う時代なんだから。どれだけ優秀な冷蔵庫でも、野菜室に半年間放置したネギは腐るっつーの。

それはもちろん、おれの半径2メートル程度の話なのかもしれないけれど、なんというか「“暮らし”って、こんな感じでいいよね?」という、おっかなびっくり感を、いろんな会話から受けてしまうわけですが、それはおれの感受性が高いからなのかおれがダウナーだからなのかは、よくワカラナイ。

どうせなら、コメの国内生産高と詳細な成分調査や、魚介類の輸入分布と詳細な成分調査や、ミネラルウォーターの国内販売分布図と詳細な成分調査とかを載せると、面白いかもしれない。

いやむしろ、建物/不動産関係のほうがいいかもしれないな。“暮らし”という意味では。あるいは繁華街における不動産所有者(社?)の国籍調査とか。

まあしかし、立原道造じゃ、確実にボツでしょうけど。