注記文に関する注記文

いずれAuthor(非blog Writer)になろうと思っているような、(今の時代においては)非効率な産業構造を有している世界で飯を食おうという勇猛果敢な(あるいは無謀な、またはドンキホーテ的精神構造の)ヒッチハイカーには、謹んで以下のコトバを送ろう。

注記文(脚注や傍注問わず)に、wikiのURLを記述するのは避けたほ
うがよい。たいていの場合、無能だと思われる。

悩ましい件

棲み分けができていないところに“共存”とか“共生”とかって、あり得るのだろうか?

タマゴとニワトリなのかなあ。

気にすることはない

「ジャンプする前は、しゃがむのが当たり前」とするガイドがあり、しばしばこの指針を口にするヒッチハイカーがいる。しかし、注意しなければならないのは、“ジャンプする”という目的をもってしゃがむのと、“立っていられなくなって”しゃがむのとは意味が違う点である。

効果的な一発を繰り出すために腰を落とすのと、強烈な一発あるいはじわじわ効くボディブローをくらって腰を落とすのとでは、まるで違う。そして残念なことに、上記指針を口にするヒッチハイカーは、ボディブローが効いてることが多い。

そういうヒッチハイカーには、当ガイドでは近田春夫の以下の言葉を贈ることにしている。

調子悪くて当たり前

“今度”には魔物が棲んでいる(ことがある)

通常、「今度ゆっくりご飯でも食べましょう」という発言における“今度”は、決して到達することのない時間軸上の一点であり、「じゃあ、予定を入れておきますから」などという“スケジュール調整”とはおよそ無縁な“約束”であることは火を見るより明らかだ。これはまあ、お中元やお歳暮と同じ虚礼に属するもので、深く追求してはイケナイたぐいの言説であり、念押しや確認などは“無粋なヒト”とされるので、注意が必要だ。ヒッチハイカーは難しい。もっともきれいなおねいさんに「じゃあ、また今度ねー」などといわれると、「今度っていつだよー」と返したくなる気持ちもわからんではないが。

無粋にはなりたくないヒッチハイカーとしては、だから2週間前に交わした当たり障りのない駄メールにおいても、「今度ゆっくり話がしたい」というキーフレーズにも、それほど深く考えることなく「そーですねー」などと返していたわけだが、相手は実は切羽詰っていて、本日、急遽ランデブーとなり、泣きながらおっとり刀で東南およそ30Km地点に走る。

ランデブーの用件は、8月2日にツールを出す。ついては8月3日リリースの瓦版にその記事を掲載してほしい。内容はコレコレで、弊社意向としてはトップのカラーページを丸々いただ。えーと、すみません。その号はすでにFixしていて、今から変更を加えるなんてことはできない相談なんですけど。いやいや、そこをなんとか。いや無理ですって。無理を承知でお願いしておる。承知の上の無理は無茶ですぜ。無茶でもいいから。無茶のごり押しはわがままです。そこは重々わかっておる。これこのとおり。頭をあげてくださいよ。だいたい、それじゃ私が死んじゃいます。ではおれに死ねというのか。山はどうですか。海は死にますか。

死ぬの死なないの大騒ぎをして、結局、号外をつけることになった。なったのはいいのだけれど、どう考えても原稿があがるはずがない。じゃあ、原稿をあげていただいて、その上で判断させていただきます、といって逃げ帰る。

こーゆうことがあるから“今度”というフレーズには細心の注意を払わなければならない。

カスタマイズの重要性について

ヒッチハイカーにとって、エディタはもちろんPCで動作するものは(ときにはPCそのものさえ)カスタマイズするのが当たり前で、そのまま使ってるのはパーだと思われた時期がある(もちろん局所的だとは思うけど)。あるヒッチハイカーはこう掲示板に書き残した。

「ソフトに(あるいはパソコンに)俺をあわせなきゃならないのって、苦痛じゃん」。

たぶん、もともとは「こーんなデータ書式じゃよくわかんねーよ」という見た目の問題で、それぞれの要求に合わせて見やすく加工するというのが、まあカスタマイズの始原ではなかったかと。で、それは書式にとどまらずソフトウェアの操作へと波及し、[Ctrl]キーと[CapsLock]キーの位置に端を発するキーカスタマイズ戦争やエディタ戦争として、相変わらず局地戦を繰り広げていたりする。

けれども時は流れ、JISキーボードが台頭し、[CapsLock]キーは[A]キーの隣がデフォルトとなり、原体験のエディタはNotePadとなると、突然変異を起こさない限り、カスタマイズ魂は壁紙の変更だけで満足するような、貧弱なものになってしまう。同時に、「ソフトにあわせたって別に苦痛じゃないYO」という種族の勃興とともに、古株のカスタマイザーでさえ「まあ、デフォルトでいいか。変更するの面倒くさいし」と自ら進んで別種族への転進をはかるケースも多く見受けられるようになった。

これは実はわれわれヒッチハイカーが生息する環境の成熟と密接にリンクしている。土塊や岩/石、あるいは木や水が剥き出しの環境において、ヒッチハイカーは生活するために(というより生き延びるために)さまざまなモノを自身の手を使って考案しなければならなかったからだ。水辺に住んでいるヒッチハイカーは自身の生活を快適にするために水(あるいは泥)をカスタマイズし、森の奥に住んでいるヒッチハイカーは木々をカスタマイズする。

しかし、アスファルトや鉄鋼などで均一の生活環境が提供され、ヒッチハイクしたことすらない種族が多数現われるにつれて、ヒッチハイカーの一部はどこかに定住するようになる。便利だからね。均一の生活環境は、細かいことさえ気にしなければたしかに居心地は悪くない。研鑽を積めばアスファルトやコンクリートをほじくり倒してカスタマイズすることもできる。細々とではあってもカスタマイズ魂を満足させることは可能だ。

また、もう少しハードなヒッチハイカーは、わざわざ山奥や岬の突端へと住居を移し、古きよき時代のカスタマイズ魂を今に伝えてはいるが、そんな居住地区だから、あまり人数は増えない。

そんなときに発見されたのが新大陸“Web”だった。ゴジラが銀座のど真ん中に忽然と姿を現わすように、気がつくとWebはそこにあった。もちろん、何人かのヒッチハイカーは、その存在を知っていたし、さらに何人かは他のヒッチハイカーのためにそのお膳立てをしていた。古文書によると軍事関係のヒッチハイカーも裏で絡んでいるといわれている。

その出自はともかく「Webの優れていた点は、それが土と木でできた“どこでもドア”であったことだ」と、あるヒッチハイカーが言っていた。「すごく少ない言葉でいいんだよ。それだけを使えばいろんなことができる。もちろんカスタマイズだって」

こうして、多くのヒッチハイカーとそれを上回る量の都市定住者たちが新大陸になだれ込んだ。ヒッチハイカーたちは新大陸を新しい住居にできるんじゃないかと、いろんなマークを残しながら、すごく先へ歩を進めている。新大陸のすごいところは、都市に住んでいようが岬の突端に住んでいようが、同じように乗り入れることが可能な点だ。一方、たいていの都市定住者たちは素の“どこでもドア”を使うことを好んだけれど、幾人かはヒッチハイカーが残したマークをたどってカスタマイズ魂を手に入れることになる。

ブラボー。ヒッチハイカーは少しずつ増え始めたのかもしれない。

新たにヒッチハイカーとなった何人が、都市のアスファルトの下には田舎道が隠されていることに気がつくだろうか。ちょうどはっぴいえんどのメンバーが都電の走る通りの下に、埃っぽい路地裏のある風街を見つけたときのように、あるいはビル街を悠然と泳ぐクジラを見つけたときのように。

おそらくここで言いたいことは、「カスタマイズの」重要性ではなく、むしろ「カスタマイズ“という発想”の」重要性ってことなんだろうと思う。

会社の近所で暮らすことについて

同じ社内のヒッチハイカーが、会社近辺に住居を移すという。

まぁ、他人様のことなのでどうでもいいのだが、通勤時間が徒歩5分ってのは、どうなんだろう。

半径5メートル四方に生息している人々の多くが、会社(それも自分のデスク)を自宅としてしまいがちであることを日々憂えてるITヒッチハイカーとしては、できれば電車なり自転車なりの交通手段を使用した通勤をお勧めしたい(ただし車やバイク、自家用ジェット/ヘリコプターなどの移動手段は除く)。

面倒くさいので詳説ははぶき単純に結論だけ言うが、物理的な移動を伴わない、あるいは移動距離が極度に短縮されると、太る。肉体的にも精神的にも。

肉体的に“太る”のは、見ればわかるのだけれど、やっかいなのは精神的に“太る”ことだ。正確にはこれは太るのではなく、ちょうど精神を紙やすりで磨き、磨き出された粉を精神に、まるごと・漏れなく・ひとつ残さず・完全にくっつけたような感じになる。総量としては変わらないが形態が粉っぽくなるとでも言うべきか。

まあ、気の持ちようかもしれないけれど、その持ち方がわからない方に限って、会社で寝泊りするくらいなら近所に引っ越そう、などと考えてしまうのである。あるヒッチハイカーはそれで失敗し、最後は窓ガラスをぶち破って7階から別世界にダイブしていった。また、別のヒッチハイカーは虚空に向かって親指を突き上げたまま冷たくなっていた。こうなると、車が来ても乗り込めない。

ITヒッチハイカーはしばしば時間と距離の感覚を見失うが、それは命取りになりかねないので注意が必要である。

脳内パニック

世の中には、

  • やらなくちゃいけないこと
  • やったほうがいいこと
  • やってもいいこと
  • やらなくてもいいこと
  • やらないほうがいいこと
  • やってはいけないこと

と、六段階くらいの“こと”があって、これらは(意識するしないに関わらず)個人の行動規範として厳然と存在している。

これらは通常“プライオリティ”という名前で区分されているようだが、それ以前に、なんというか“ヒトとしてのあり方”のモンダイじゃないか、と思われる。

そして、そのあり方によって、六段階の“こと”は激しく入り乱れ、あるヒトにとっては「やったほうがいいこと」に分類される行動が、別のあるヒトにとっては「やってはいけないこと」に分類されていたりする。これが、世界をややこしくさせる最大の原因だ。

しかも時と場合によっては、行動の分類は“自己責任”ではなく、責任を放棄したところにのみ立脚する“熱い欲望”だったり“明日のお天気”だったり、あるいはそれこそ“人類の叡智を超えたナニモノか”によって選択されたりするからややこしさは想像を絶する。

そういった、テンでばらばらな行動規範に対して、Hitch Hiker's Guideが自信を持って贈る言葉といえば、

どうぞご無事で