リアルなコトバはぐっとくる件

津田さんのTwitterでシンポジウム「闘論!週刊誌がこのままなくなってしまっていいのか」で登壇した編集長たちの発言が断片としてあがっていたので、読んでいたわけだが。

もはやブランドを確立したので気の利いたアジテーションさえしておけばOKな爺さん連中の発言でもなく、会社の看板を意識して(たのか?)個人的な理想論に走ることもなく、ゴハンに直結した声を読めたのが収穫。

たとえば、これ。

週刊ポスト「週刊誌は売ってナンボ。スクープは何か、それは編集者が決めるのではなく、読者が決めるもの。部数を稼いでいろいろな人に読んでもらう。その中で雑誌ジャーナリズムを読んでもらうという順番だと思う。僕が編集長のときはどうやって売るかということしか考えてなかった」

tsuda@twitter

結局のところ、読者目線で彼らが“なにを欲しているのか”からしか誌面は作れないという当たり前の話をしているのだけれど、これが実は一番難しい。モノは言いようなんだけど「不特定多数のニーズを集約しにくい時代」ともいえるし。だからこそ、Webでなければならない側面があるわけだし。で、最終的に辿り着くのは金とオンナだったりして、それはそれでペテンを全開にしないと、もはやニーズに追いつけないし。

そういう意味では女性週刊誌(とくに「女性セブン」)の先々代編集長に参加してもらうべきだったんじゃないかな。「女はバカだから、これくらいじゃないとダメ」と平気で言うようなヒトだったからなあ。そういうヒトに、今のニーズについてガチで語っていただきたいもんだ。

一方、個人的に一番ヒットしたのはこれ。

週刊金曜日「雑誌は何で買われるか。それは暇つぶし。佐野さんの本は俺も持っているが、佐野さんが連載した雑誌は捨てた。今の暇つぶしは何か。ネットかケータイ。暇つぶしのものとしてやっている以上、雑誌が売れるわけがない。今の雑誌のビジネスモデルは終わってる」

tsuda@twitter

“雑誌暇つぶし説”ってのは、これもまあ、定説っちゃー定説なんでアレなんだけど、たとえばおれらがコドモのころは、電車での移動が主で、しかもその時間がハンパない。だから旅行となるとコドモはトランプを、オトナは花札を旅行バッグに忍ばせていた。もちろん旅館に着いてからのお楽しみではなく、移動中の暇つぶし。

長距離移動の時間をうっちゃってくれる王様がトランプ(花札)であれば、自宅から会社程度の移動の暇つぶしの王様は新聞であり週刊誌であり文庫本だった。

それが、まあ、いまや携帯とDSなんだよなあ。たしかに「暇つぶしのものしてやっている(作っている?)以上、雑誌が売れるわけがない」。だからといって“暇つぶし”以外の立ち位置を目指したら、それはもはや雑誌(週刊誌)じゃないような気もする。まあ、それを真剣に考えるところからはじめないと、雑誌(週刊誌)は再起できないわけだけれど。

一方で「再起するにしても出てくる場所は別に紙でなくてもいいじゃん」といってる(っぽい)のが、こちら。

週刊大衆「週刊誌が人々の生活のサイズに合わなくなった。それは紙に刷られたこの週刊誌という形が人々のライフスタイルに合わなくなっただけで、雑誌的な情報、楽しみというものは残るだろうなと思う。なんとしても他誌が倒れても自分のところは新しい時代に備えて生き残りたいと思っている」

tsuda@twitter

雑誌的なコンテンツ(それは単に下世話ということではなく、きちんと企画として練られ取材が行われ文章が推敲され、すなわち“編集”されたコンテンツ)でさえあれば、(それを嗅ぎわけ楽しむDNAは誰にでも必ずあるはずだから)どこのメディアで展開されようがいいじゃん。って感じか。わからんではないんだけど、個人的にはライフスタイルに合った紙メディアを(ドン・キホーテ的に)志向したいとは思う。

田島「今の若い学生は週刊誌なんか見ない。新しい技術を加えていくということが我々の社会には大事。右であれ左であれ、やり方がどうであれ、新しいものを作っていかなきゃいけない。情報を隠したがる部分に切り込んでいって情報を出すというところには応援をする」

tsuda@twitter

そりゃそうなんだけど、だいたい“応援”って言葉ほど胡散臭いものはないんでねえ……。というか、それ別に週刊誌の話でもなんでもないんじゃないかという。ノンフィクション作家が減るというのなら、わからなくはないし、むしろ週刊誌がなくなると、いわゆる取材のあり方とか取材の方法とか取材時の仁義の切り方とかが継承されずに、下手するとクオリティがガンガン下がるという懸念はあるなあ。

で、以下は読んでて思わず笑っちゃったもの。

佐野「雑誌は読者のもの。読者が知りたいことを我々が代表質問する。それはかなりリスキーだし命がかかることもあるがやりがいがあること。さっき暇つぶしという言葉があったが、アミューズメントもエンタテインメントも娯楽と訳すが、両者は違うもの。前者は暇つぶし」

tsuda@twitter

もうね。「読者が知りたいことを我々が代表質問する」ってのが、胡散臭い。まあ、これは“時のヒト”をマイクで取り囲むテレビ映像のイメージが刷り込まれてるせいもあるんだけどさ。カッコいいこと言っちゃうと“読者目線で誌面を構成する”のと“読者の代表として対称に切り込んでいく”のは、レイヤが違うんだよね。切り込んでいくときはやっぱり“個人”だと思うんだよ。だからこそ、多人数の目線が絡み合う雑誌というスタイルが面白かったわけだし。おれにとってはね。

あとさ、細かいことだけど、アミューズメントもエンタテインメントも、基本的には暇つぶしだよ。暇もつぶせないようなエンタテインメントなんて屁の役にも立たない。エンタテインメントに接して暇つぶし以上の感興を得られることもあるから(あったから)、雑誌が賑わったんだ。そこを勘違いすると、

佐野「僕は暇つぶしではなく、エンタテインメントを書いてきたつもり。楽しんで仕事やってないという話があったが、それは今の雑誌が一本調子だよということだと思う」

tsuda@twitter

なんてえ発言になる。

今の雑誌が一本調子かどうかは知らんけど。少なくとも中途半端ではあるなあ。それはきっと“エンタテインメントをやっている”なんていう意識の下で芸のない文章を書き綴っているからじゃないかとかウッスラ思ったり。

イベントでおれも考えた

まあ、そんなわけで売り子をやったわけだが、これ結構楽しい。次回はいろいろ趣向を凝らして売り子をやろうと思った。ノウハウというかツボはわかったので、明日から準備をしようと思う。

おれが属しているところの会社のほかはオライリーとオーム社とインプレスが参加していたわけだが、LLでラリー・ウォールが来るとなればオライリー一人勝ち状態。まあ当然だよな。ソフトバンク、アスキー、マイコミ、ピアソンは展示のみで参加(というのかな)。

で、そういう書籍売り場を眺めてみると、オライリーにもオームにも展示にも、それぞれ(現在、おれが属しているところの会社からの)卒業生がおり、セッションとセッションの間の休み時間には、やはり卒業してフリーになった編集者がウロウロしていたりで、なんというか、この世界の狭さを実感する。

むしろ、同僚がひとりとして現われないことが、いろいろんなことを考えさせてくれるという。

まあ、最後の最後に別部署の執行役員がバカボン状態で現われたわけだが。しかも「ごめーん。店出してるなんて知らなかったー」という嬌声付きという。いかに社内メールが読まれていないかという証左といえよう。

社内メールなんて、おれも読まないがな。ははは。

意外と逝けてるのではないかと

男・星野がWBCの監督をするとかしないとか騒いでいるようですけど、この際、板東英二にやらせてみるというのはどうか。

彼ならズタボロに負けても影響が少なくていいのではないか。何に対する“影響”を心配しているのか、我ながらよくわかりませんけど。

タイヤキと教訓

某氏に会いに行くにあたって、タイヤキ持参の推奨度合いを本人に訊いてみたところ、「その必要はない」という回答をいただく。

著作物の登場人物と同一視してはイクないという、貴重な教訓を得た日であった。

“不況”か“衰退”か

某所で「出版不況ではなく出版衰退だ」というご指摘がございまして、「ナニをいまさら」と引きつり嗤い。

個人的な感覚としては、1995年を境に出版業界はずーっと下り坂で、それはまさに衰退と呼ぶにふさわしい按配で、もはやチキンレースの状況を呈しているのは周知のとおり。とはいえ、“上がったり下がったり”を繰り返すのが好況・不況のありようなら、そのスパンが100年単位なのかもしれず、そういう意味では“底を打ってないからまだ不況”という認識でもOKなハズ。

では、どこまで行けば底を打つのかという話になるのだけれど、出版物の流通が今の1/5,000くらい、あるいは1/50,000くらいになるまで縮小すると底を打つのではないかと愚考する。それくらいのサイズが、おそらく日本の活字事情にちょうどいいのではないか。根拠はないけど。

その上で、さらに悲観的な見通しを述べさせていただければ、少子化や識字率といった諸問題を考慮した場合、このサイズは年々小さくなるはずなので、いや、やっぱり衰退と呼ぶべきなのかもしれない、とか思ったり。

で、細々と残った活字が、すべてお手軽TVドラマの劣化版ノベライズ的読み捨て御免本だったら、ちょっとイヤかもしれない。

まあ、残りの時間をすべて費やしたとしても読みきれないほどの古典があるから、基本的にはそれはそれでかまわないんだけどね。

極私的な返信ネタを書いてみるテスト

いやもちろん、「もう一方の当事者に十分な時間を与えてあげたい」のは山々なのだけれど、時間を与えることで「さらなる質の向上が見込める」かというと、それは往々にしてかなーり微妙なような。

まあ、「もう一方の当事者」がホントにこちらの期待に応えられる能力を持っているのであれば、「十分な時間」のさらなる増資も検討対象にはなるんですけどね。

単純に1か月待たされて、あがってきたのが、たとえば翻訳ソフトをかましただけの文章が数章だったら、やっぱり「爆発しろ!」とかいいたくなるわけで。

で、そんな香具師をチョイスしてしまった手前のミスというのは、十分承知しておるわけですけれど、それをフォローするための選択肢に「時間を与える」ってのは、おれの中にはないなあ。

あと、時間を与えることで「いいものができる/できない」(あるいは質が向上する/変わらない)の判断ってのは、途中の成果物で十分判断できるよね(と共感を求めつつ)。どこを押せばもっとよくなるか、どの方向に目を向けさせればもう一段上に行ってくれるか、なんてのは、経験を積めば見えてくると思う。

西洋の誰かが言ってた「タマゴが腐っているかどうかは、ひとくち食べればわかる」ってのは、至言。

丸善が大日本の子会社になる件

PLAYBOY日本版の休刊話よりも、実はこっちのほうがインパクトがあったなあ。

まあ、書店が厳しいのは重々承知しておりますが。

 大日本印刷は8月20日に、経営再建中の書店大手、丸善へ43億円を追加出資し、子会社にする。7月31日に両社が共同で発表した。出資金は丸善の事業拡大に必要なシステム開発に充てる。

 大日本印刷は2007年に丸善と資本提携し、現在は議決権の40%を保有する筆頭株主。新たに丸善が行う増資を引き受け、議決権の保有率を51%に高める。

 丸善は増資で調達する資金43億円のうち、20億円を大学の運営支援事業に必要な営業支援/販売システム開発などに充てる。また10億円を店舗事業の顧客関係管理システム開発と、単品管理システムの精度向上に投資する。

 3億円は出版事業に振り向け、既存コンテンツの他メディア化やオンデマンド出版対応のためのデジタル化を進める。残り10億円はコスト改善を目的とした基幹業務システムの開発資金にする。

 システムの開発は2011年1月期までに完了する予定。同期に売上高で100億円、営業利益で10億円の上積み効果を見込む。

 このほか丸善は、大日本印刷の子会社で図書館に書籍を販売している図書館流通センター(TRC)と、提携に向けて協議を始めた。

「大日本印刷、丸善を子会社に、43億円を追加出資」(国内・ニュース/YahooJ)

出版業界再編成(というか新編成)の主導は、「他の業界同様、大手出版社になるだろう」とか、「彼らにしてもわざわざリスクを取りに行くよりチキンレースを加速して、とにかく脱落者を増やす方向で調整するのでは」とか、「再販問題も含めて流通じゃないか」とか言っていたけど、印刷所という手もあるわけですよね。当然。

うまみは少ないけれども、コンテンツプロバイダとして“紙にもデジタルにも即応できます”という姿勢は、ありだと思います。

もちろん、印刷所は規模の大小はあるにせよ、だいたい子会社あるいは関連会社として出版社を持ってるけどね。今後は製紙会社と結託して出版業を整理整頓しに来るかもしれないとか、ウスラボンヤリ考えたりラジバンダリ。

なにしろ時代はエコですし。

あまり深入りせずに思ったことを書いてみるテスト

どうでもいいことだが(というか、どうでもいいことしか書かないのが、このBlogのポリシー(!?)なわけだが)、版元の人間が“良書”といってはイケナイなあ、とつくづく思う午後なのだった。

もちろん作り手は“よい本でありたい”とは思うけれど、最終的に“良書”かどうかを決めるのは読者でしかないのだ、という当たり前のことが欠如しすぎなケースが多々あるからなあ。

もっと言っちゃうと、企画段階では“すげーよい本”なんだけど、出来上がってみたら森林資源の無駄遣い以外の何ものでもなかったり。あるいは洋書なら“良書”だったのに、翻訳したら“悪書”になってしまったり。ラジバンダリ。

というか、“良書”を免罪符にして企画を通すってのが、まあ、間違いなんだけどね。それくらいならブランド戦略の一環とかコミュニティの囲い込みとか、今後のロードマップの布石として企画してくれたほうが、もっとシアワセになれるような気がする。

個人的には、とりあえず、媚びることなく普通に対価(時間と価格)をカバーできる(あるいはカバーしてあまりある)製品を作れたらなあ、とか思ってみたり。

明日には忘れてるんだけどね。

孫さんのメッセージ

「パソコンでYahooを楽しむより、iPhoneのほうが楽しめるのではないか」なんてことを孫さんがおっしゃってますけど、それってつまり、iPhoneではFlashは走らないけど、Silverlightなら走るということなのかな。

考えすぎのような気もするけど。

あ。タモリ倶楽部が始まった。

プロトコルに関して、もうひとつ

セッションの現場に行って思うのは、たとえばバップ大好きなヤツでもロック一本道な野郎でも首までファンクなヒトでも、いわゆる“12小節ブルースコード”というプロトコルさえあれば、接続できるんだよね。そこがスバラシイ。

もちろん、4ビートと8ビートと16ビートじゃ、全然違うんだけど、そこはポートが開いていれば(あるいは開けることのできるココロがあれば)無問題。

しかもセッションは(基本的に録音なしなので)ログが残らないから、どんなに酷いことを言おうが顰蹙を買うようなことを申し述べようが、後腐れがない。まあ、その後、ステージ上でやや敬遠されることはあるかもしれないけど。プロトコルそのもの(あるいは物理層)の破壊活動さえ行なわなければ、門前払いされることもない。

いやあ、音楽って、本当にいいですね。

秋葉原とプロトコルと悲哀について

シャッチョさんとの会談を終えたリアルアンパンマンが、目の周りに広大な熊牧場をこしらえて帰ってきて、当然、与太話に花が咲いたわけだが。

「秋葉原の事件の話を振ったら、「テレビは見ない。というかない」って言われちゃってさあ。テレビは2年位前に捨てたんだって」
-テレビなしでなにやってんですかね。Webすか?
「んー。ニュースはそうみたい。「Webで3行くらいのコトを何十時間もやってるし」とか言ってた。テレビ見ないで本を読んでるみたいだよ」
-本ねえ。まあ、こちとらゲラ読みで活字はお腹いっぱいになっちゃうからなあ。
「帰ったら、とりあえずテレビ点けちゃうもんなあ」
-あー。おれもそうだなあ。テレビは中心を見ちゃダメなんですよね。今は。中心じゃなくて周辺を見る。そこが一番面白い。
「バレーボールの泣いてる小学生とか」
-それは知らないケド。
「男子が勝ったときに、小学生が一人前に号泣してて、監督が崩れ落ちてマケボノ状態になったシーンよりも、なんかココロに残ったなあ。わー、イッチョ前に泣いてる! とか思って」
-わはは。最近の周辺で一番だったのは“要するにおじさん”かな。厳密には、あれは周辺じゃないけど。
「秋葉原のインタビューでしょ。見た見た。見ながら「そこは“要するに”じゃないだろっ」とか突っ込んでた」
-あーゆうのがあるから、テレビは見ちゃうんだよねー。

というわけで、ひとしきりテレビの話題で盛り上がったわけだが、結局のところ、この歳になるとテレビそのものが楽しいのではなくて、テレビを媒介に互いの視点の細かい差異や、零れ落ちて忘れ去られるべきポイントを指摘しあうことで共通のナニカを確認しあってるだけなんだよね。わしら。

つまり、プロトコルがテレビなだけで、それは別に本だってかまわないし、映画だって絵画だってイベントだってかまわない。それこそ、2ちゃんねるとかニコ動とかはてな村とか、あるいは.NETとかJavaとかRubyとかHaskellとか、もっと大きくインターネッツとかでもかまわない。

共通のプロトコルで他と接続できれば、それだけでかなりうれしいことだし、接続を絶やさないようにするためにもプロトコルの上に乗っかるコンテンツは豊富なほうがいい。というわけで、炎上物件は絶えないし、重箱の隅的コンテンツは消えては浮かび浮かんでは消えてゆくと。

それがインターネッツのおかげで非常に短期間で視覚化できるようになったというのは、しかし喜ぶべきことか悲しむべきことか、やや迷うな。

いずれにしても、「テレビはない」と通信を拒絶されたリアルアンパンマンは、「そうですよねえ。同じですもんねえ」と優良サラリーマン的回答をして帰ってきたというあたりに、たしかな悲哀を感じたわけでございます。

融通の効かない番組表の件

Webでテレビの番組表を掲載するのなら即時性を重視すべきなんじゃないかと思うんだけどね。そうはならないってのがどうにもなあ。

バレーボールの結果が試合終了と同時にジュースとしてアップできるのであれば、番組表もできないとおかしいでしょ。JK。

もちろん、キー局に対して地方局があり、それぞれが複雑に絡み合いつつ各局ごとに放送ラインナップを編成していることは重々承知しているけれど、たとえばスポーツ中継でどの局はどこまで放送するかは事前に(たしか2週間前)には決まっているはずだし、直前で変更される場合も、ある程度、そこに追随することも可能なはず。システム的に。

それが出来ないのなら、それこそテレビ情報誌と大して変わらない。まあ、タダではあるけどね。

たとえば今日のフジテレビみたいに、バレーボールでベラボーに時間が押した場合、F1カナダGPの予選があるのかないのか、あるとしたら何時からなのかがわからなければ、Webで番組表を見る意味がないんだよね。逆に言えば、それがわかると、本気で番組表主体の情報誌は死ぬしかない。

Webで番組表を配信している“なかのヒト”は、そのあたりのことをもう少し考えるといいと思う。

『ダカーポ』休刊の件

ダカーポは、この620号をもって、しばらく休刊することになりました。長い間のご愛読をどうもありがとうございました。

「ダカーポ」(マガジンハウス)

2007年12月5日発売号でいったん休刊。時間の問題だろうなあ、とか対岸で眺めていたわけだが、やはり休刊となると感慨ひとしお。

実売で5万を切って、あの価格(290円)。しかも伝え聞くところによれば社員編集者が6人で常駐型フリーランス(ライターおよび編集者)が20人なら、ほとんど人工心肺で生かされているも同然か。

で、その“人工心肺代金をどこから捻出するか”を雑誌作りの中に戦略的に取り込んでおかないともはや雑誌は作れないというのが常識なわけだが、それはそれで、老朽艦を沈ませないためにイージス艦やら補給艦やらを引き連れた、結果的にコストに見合わない大船団を組織するか、あるいは、それこそ特攻野郎Aチームのごとき(あるいはチャーリーズエンジェルのごとき)超人数名によるゲリラ部隊を組織するしかない。

要するに、現状から導き出されるセオリーを満足する組織作りは(少なくともおれの周囲では)不可能ということになる。なにしろ、おれが足を引っ張るからだ。おれがチャーリーになって、3人のエンジェルを操るという可能性も無きにしも非ずだが、おれにはカリスマ性が皆無なので、あっという間にエンジェルたちは転職してしまうだろう。悲しいのう悲しいのうWWWWW。

というわけで、新たな常識を考案中なのだが、果たして今世紀中に発見できるのか、やや不安ではある。

まだまだ出てくるチューナ商品

これは2006年年末にリリースされていた(らしい) ワンセグチューナ。

持ち運びというか、携帯するにはいい感じみたいだけど、ややアンテナの強度に不安を残しているのではないかと(画像をみながら)薄らぼんやり考えてみたり。

まあ、ここまでくると、ブツ本体に付加される機能(クリップでノートパソコンに留められるとかアンテナを筐体にしまえるとかUSBのクチがスライド式になっているとか外部アンテナを使って受信を良くするとか)は出尽くしているので、やっぱり問題はアプリケーションの使い具合か。エンコード(?)アルゴリズムは同じだろうし、描画アルゴリズムもそんなに変わらないだろうから、結局はGUIの按配にかかってくるんじゃないかな。

いずれ、PCに暗号化して保存した動画も、暗号化アルゴリズムをクラックされて好き勝手に流出しだすんだろうなあ、などと不穏なことを夢見たり。たとえば、個人的にはTVドラマなりバラエティなりを1クール全部ためといて、移動の際にZuneで見る、なんていうソリューションがうれしいわけだけれど、アプリケーションを導入したマシンでしか見られないとなると、溜めて見るなんてことはあんまりする気にならない。

要は“個人で楽しむ”シーンが広がりすぎていて、現行のデジタルデータに対する腰の引けた著作権が追いつけていない、ということになるのだろうな。

このあたりはウォークマンが出てきたときにちゃんと考えておくべきことだったんだろうけど、まあ、今から考えても遅くはないに違いない。

ただ行き着く先がデバイスと個人をどうリンクするかという点にしかないような気がするんだけど、それは問わないことにしますかねえ。

うーむ……

いろいろ考えることが多すぎてまとまらないのだ。それはおそらく知識の始点があまりにも近すぎるせいであり、どこまで過去に遡れば正しい始点に行き着けるか不明なため。というか、“正しい始点”などあるのだろうか?

要ログイン。

  • sadam=http://www.youtube.com/watch?v=jP94A6MKS9k

XPSがわりと逝けてる件

WordでDTPなんて話が某所であって、話題に上ったときは「それはちょっとイヤかも(本音は「すげーイヤ」)」などと笑っていたのだが、ここにきて「それはそれでアリかなあ」とか思いつつあるのは、とりあえずWord 2007でXPS出力したものが、わりと(Webブラウザでは)ちゃんと読める(というか、とても読みやすい)ことに納得したせい。

PDFでの保存もできるんだけど、デフォルトではXPSで保存したほうが(個人的には)いいかな、とか思う。たしかにAdobe Readers追撃作戦は着々と進行しているのだなあ。

たとえば紙メディアにおける現行の“レイアウト”を、Wordで100%再現できるのであれば、PDF出版よりもXPS出版のほうがワリがいいかもしれない(Webにもレガシーにも対応できるという意味で)。

もちろん、これは書籍に限定された話で、雑誌のレイアウトは厳しいなあ。厳しいってのは、日本の雑誌特有のゴチャゴチャした誌面をWordで再現するのは、かなりつらい作業になりそうだなあ。てゆうか、DTPを導入した雑誌で、あの猥雑さを演出できた雑誌なんて、見たことないよ。まあ、わたしの勉強不足もあるのでしょうが。

PDF出力を前提に書籍制作を考えるのであれば、QuarkXpressといったDTPを使わずに、それこそLaTeXで組むほうが、美しい紙面を作れる。あれは文字組みがちゃんとわかってる人に組んでもらうと、ホントに美しくなるからすごいよなあ。ASCII独自の組版ツールという選択肢もあるのだけれど、メンテナンスを考えると、やっぱLaTeXじゃないかな、と思う。某氏には申し訳ないけど。

しばらくはレガシーを多用しつつ、XPSでどう展開できるかを考えようかな。いやいや、Web展開の先を見込んだ上で考えないとダメかな。てか、おれ、書籍作るのか?

まあ、いずれにしても、現時点ではWebからアドインをダウンロードしてインストールしないとダメなところが、ちょっと悲しい。カンタンだけどね。

ところで、書籍をWebで展開するにあたってXPSを選択するというのは、例のドキュメント合戦でIBMに「NO」を唱えることになるのだろうか。ThinkPadもOS/2も亡き今では、IBMにはあまり魅力を感じてないので、どうでもいいような気がするけど、言ってることは、ややIBM系のほうが正しいような気もするわけで。悩ましい。

床屋談義

自民党の中川幹事長は17日の記者会見で、郵政民営化に反対して自民党を離党した「造反組」の復党問題について、落選した前議員よりも現職の無所属議員の復党を優先する考えを初めて表明した。
「「造反組」復党は現職優先…自民・中川幹事長」(Yahoo!ニュース)

このニュースのキモは現森派(=町村派)の(強い?)推薦で入閣した中川くんが表明したこと。

これによって復帰する議員の多くが森派に借りを負うことになるから、結局、派閥政治が再度台頭することになる。小泉くんが壊(そうと)した派閥政治が再構築に向けて動き出していると読むのが正しい(ような気がする)。

裏を返せば、新人議員よりも百戦錬磨の古株を迎え入れつつ強固な集団を作り上げることを選択したのだろう。まあ小泉くんの「議員は使い捨て」でショックを受けてるような新人議員はイラネということだろうし、それは選択として正しいと思う。

個人的には古株も甘ちゃんも切り捨てた、スリムで強固な集団が望ましいのだけれど、これは“いつか来た道”感が漂うので、それは避けなければならないというバランス感覚が発揮された(と考えたい)。

さて、どうなりますやら。

Web 2.0のおれ的定義

で、その「REMIX Tokyo 06」のオープンスペースには、「あなたにとってのWeb 2.0とは」なんてコーナーがあって、来場者が好き勝手なことをポストイットに書き込んで貼り付けていくわけだけれど、それらを呆然と眺めながら、不意に天使が降りてきて目を覚ましてくれた。

Web 2.0ってのは、要は、

無駄なリソースと捨てられてしかるべき情報群

ということなんだな。

妙に納得したので、安心してパネルディスカッションをパスし、帰路につく。

ブックオフが逝けてる件

こどもあたま姐さんとともにフリーマントル熱に罹ってしまい、本屋に行くたびに新潮文庫の棚を舐めるように物色しているわけですが、旧刊がなかなか見つからない。おそらく絶版状態になってるのであろうと忖度しているのだけれど、絶版だからといって読みたい熱が治まるはずもなく。

まああたくしの場合、幸いチャーリー・マフィンシリーズに関しては『城壁に手をかけた男〈上〉』『城壁に手をかけた男〈下〉』まで、文庫化と同時に読んでいたものの、フリーマントルの新作を読んで、全然関係ないけど初期の『消されかけた男』とか『別れを告げに来た男』とか『明日を望んだ男』といったチャーリー・マフィンシリーズを再読しようとすると大変なことになる。このあたりはすべて段ボール箱に詰めて実家の押入れに眠っているのだ。

こういうのが即座に取り出せると、もう少し深みのある人生を過ごせそうな気もするけれど、それはまあ気のせいだねきっと。

というわけで、神田の古書店に赴く前に、ブックオフ巡礼に出たわけですが、いや、あらためて数店まわっていろいろ考えさせられました。主に文庫なんですけど、背が焼けていたり端本は消費税込みで105円均一、新古本並みの文庫であれば250円均一って、ちょっとすごくないか?

店内では清水國明が、

読みたかった本や聴きたかったCD、見たかったDVDや遊びたかったゲ
ームソフトをブックオフで見つけたら格安で購入。読み終わったり
聴き飽きたり、見飽きたり遊び飽きたらブックオフで売ればいい!

みたいなことを言っていて、もちろん、おれの記憶だからあてにはならないけど、その店内放送をバックに、結構なヒトがCDだの文庫本だの漫画本を黙々と物色しておりまして、あたくしもその一群に混じって絶版扱いのフリーマントル本を何冊か購入したわけですけど、これに味をしめると、もうWebの新刊本屋に行く気が失せるね。ロングテールだ鰯の頭だといったところで、ブツがなければWebも機能しない。

新刊本と出会うには普通に書店があればいいけれど、いったん新刊中心市場への供給が絶たれた本に関しては、やはりそれ相応の市場を巡らないと入手できない。オークションやAmazonのセコハン本でありえない金額を提示されるくらいなら、足を使って探したほうがよっぽどいい。そのほうが、新刊書店では見過ごしていた書籍とも出会えるわけだし。

もともとCD(というかレコード)がそうだったように、書籍もそういうルートでも人気を博さないとダメよね。

では、こういう状況をWebは改善できるのだろうか? ブックオフがWeb展開しだしたら、できないことはないなあ。ただ配送のタイムラグはいかんともしがたいだろうし。トランザクションの問題をはらむわけですね。

あとは計画的なブツの買取ができないという点も大きいか。いわば市中在庫をどう管理するかがキモになるだろうな。

今度は読まなくなった本を何冊か持って行って、いくらくらいになるか試してみるつもり。もっとも、それこそバージョン依存しまくりの本ばっかりだから、そんなにいい値段になるとは思えないよなあ。回転率が上がるような本、たとえば今なら『DEATHNOTE』全巻一揃いとかだと、わりといい値段になりそうな気もする。あるいは、岡崎京子全作品とかね。とりみきじゃダメかな。

アホらしさがたまりません

巷ではYouTubeを筆頭に動画をおかないサイトなんかサイトじゃない、くらいの勢いとなっておりますが、こちらは相変わらずのStupid Graph探しなわけです。すみません。

Flashネタも相変わらず探しているのだけれど、さすがに鈴木宗雄フィーバー時に比べると、最近は黒い笑いを誘発してくれるようなFlashが少なくなっていて、ちょっと悲しい。Flash職人の皆さんと2chのアイデア集団は奮闘していただきたいものであります。

ところでYouTubeの動画って、PVとかTVの切り出し以外は、結局、ユーザーがどれほど機材に金をかけて、コレまでにないアイデアを映像化するか、という2点が大きなポイントとなっていて、これは先が細いなあ、という感じがする。

まあ、日本型のアイドル消費モデルがワールドワイドに広がると、また一種独特のビジネスモデルが構築できるのかもしれないけれど、そういうのはもうお腹いっぱいです(ちょっとウソ)。でも、トヨタ、ソニーに続く日本の産業って、もはやそういうモデルしかないんじゃないかと、漠然と思ったり。

外人とのぶっちゃけセッション

セッション後、このカンファレンスにあわせて来日していた米国ベンダーの方と座談会。ワールドワイドでVSを使用しているユーザーのうち、15~18%を日本人が占めているのに、なぜ日本人は弊社製品を使おうとしないのかというテーマで、そらあんた、必要性を感じないからでしょ、という話に終始する。

まあ、ぶっちゃけちゃえばその製品ってのは難読化ツールなんだけど、じゃあ逆になぜPerlやJavaにはそういうツールがないんだ、という話がWebではあるでしょ? なんてことを嵩にカカッテ言い立ててみる。

笑ったのが、米国の某銀行において、ロジックをファイアウォールの外に出していたために、大変に危険であるということで政府のお墨付きをもらえなかったという話。それはソースを暗号化するとかいう以前の問題じゃん。

ただ、Eコマースサイトを構築するために依頼したホスティング業者をどこまで信用するのか、という指摘は正しい。そこはたしかにVS2005で作ったアプリケーションでは、そのまま配置するのは危険だ。情報漏洩は内部犯行ばっかりだしね。だけど、別に難読化ツールを使わずに、リリース版だけngen.exeでネイティブにしてしまえばいいわけで。それをマクロ化してしまえば、開発者が忘れていてもVSが自動的にやってくれる。問題ないじゃん。

一方、コンポーネントも含むWidowsアプリケーションであれば、難読化の出番は多くなるような気もするけど、それもngen.exeを使えば問題ない。国内でソースをそのままパクルようなことは昔に比べて減ったと思うけど、問題はお隣の半島とそこにつながる広大な土地を保有しているところの各国。アノ人たちはなにするかわからんからね。

などと国際的に物議を呼ぶ発言が(もっぱらおれから)飛び出し、大笑いする。おれが。

だいたい、できるプログラマなら、アプリケーションをいじってみれば何をやってるかくらいは想像できるわけで、想像できるものはたいていのものは作れるわけで、そしたら、ソースを見なくても似たようなアプリケーションは作れるはずなんだけど。

外人に指摘されたのは、社内におけるソースコード管理に必要とされるのではないか、という点。これはたしかにそうだなあ。でも、それってやっぱりサーバー管理とロール設定の問題じゃないのかなあ。プロジェクトチームを組織するってのは、そこまで見据えているものだと思うのだけれど、そうでもないのかなあ。

現場に深く介入しているわけではないので、そのあたりの事情はよくわからんのであった。今度調べておこう。

校正記号について考えてみる

(他人様の)ブログペットに「組版が……」といわれて思わず“組版”をキーワードに各地を転々としていたら「修正が赤字のとおりになっていない」と言われて「「それは赤字の書き方というか指示の仕方が悪いんじゃないですか?」といおうと思った」けどやめた、というエントリーがあった。

そういや、昔むかし、この業界に入りたてのころ、

「トルツメ」と指示したら文中に「トルツメ」と書かれたゲラが返ってきた。

という笑い話を教えられた。当時の写植屋やオペレータはコストを抑えるために“日本語のできる日本国籍を持たない労働者”を雇っていることも多かったので、そういうヘンなことになりやすかったのかもしれないし、テクニカルタームを習得していない写植屋やオペレータだったら、国籍を問わずあり得る話だ。

要は“独りよがりな指示は事故のもと”という訓戒が含まれている話なんだけど、おそらく相変わらずなんだろうなあ、と忖度する。

実は校正記号って、SQLと同じように(という例の出し方がすでに逝けてないわけだけど)微妙な方言がある。方言というか、ローカルルールというか。そのため“即戦力”ということで組織に迎えられた編集者は、前の職場で培ったローカルルールに則って校正を行ない、他の編集者とは微妙に異なる赤字の入れ方をするようになる。

そんなの最初の入社段階で仕込めばいいだけの話だけど、これがなかなかうまくいかない。仕込むほうも実はアヤフヤだったり、仕込まれるほうは依怙地だったりと、歯車がなかなかかみ合わない。そういや、おれが最初についた編集者は「エディターズスクール出身の編集者は依怙地だから使わない」と明言していたけど、それはたぶん偏見。

そんな状況が重なり合って、組版屋のローカルルールと編集部(というより編集者)のローカルルールが(大枠では一定でも)混在するようになってしまって、まともな赤字すら入れられないようなコトになってしまったのかなあ、などと思う。

たとえば、

は「文字の転倒を修正する」記号だから、今のDTP全盛時代では縦組み二桁半角数字の修正くらいでしかお目にかかれないような気がするのだけど、トルツメの意味で使用していたり。

で、気が利くDTP屋さんだと、魚心に水心で希望通りの修正をしてくれるから事態はますますややこしくなる。だって直ってるんだから「転倒修正記号」で「トルツメ指示」もOKじゃん、ということになる。

たぶん、40代半ばから30代前半にかけての編集者が、そういうまともな伝統をきちんと継承してこなかった、あるいは継承できなかったのが原因かな、とも思いつつ、それらをDTPの普及でシロートが大量に参入したせいにすると一番ラクチンかもなあ、などと胡乱なことを考えたり。

まあ、Web時代なんだから不安になったらリファレンスをあたれというこった。

優しい人々に囲まれた晩

編集者の仕事のひとつに、読者が喜びそうなテーマの探索と、そのテーマを具体化する書き手の選択がある。

この部分だけ取り出せば、紙だろうがWebだろうが流通メディアは問われない。

けれども、流通に載せるフェーズとして原稿整理というステップがある。書き手からあがってきた原稿を読みやすく、かつ、デザイナと打ち合わせしたレイアウトに沿って組版屋が文字組みしやすいように図版や表に対するナンバリングを行なう地味な作業だ。

地味ではあるけれど、実はとても重要な作業だとおれは考えている。下手な書き手だと、それこそ原稿に手を加え構成そのものから作り直さなければならない(「だいたい4ページでお願いしているのに平気で16ページも書いてきて、一字一句直すなというのは、ヒトとしてどうなんだ」などという怨嗟の愚痴が下の階から聞こえてきそうだが)。その過程で、さらに表が増えたり図が増えたりもする。

このときに注意しなければならないのは、あくまでも書き手の意図や息遣いを120%伝えることを目標としつつ、組版屋がゲラに落とし込んだ仕上がりも想定して作業を行なわなければならない点だ。

原稿整理が下手だと、著者との関係は冷戦状態になるし、仕上がってきたゲラも、たとえば文中で言及された図版がページを繰らないと出てこないなんてことになって、読みにくいことこの上ないものになる。

その点、メディアがWebであれば、どこにでも図版や表を入れることができるし、注意書きもリンクやAjaxを上手に使えば仕上がりを想定する必要もない。テニヲハに注意さえしていればテンプレート処理だって可能だ。

で、訊きたいのだけれど、それって面白いか?

たしかに、テーマの探索と書き手の選定、そして成果物を流通に乗せることが至上命題であれば、あるいは編集者の存在意義がそこにのみあるのであれば、それでもいいんだろう。どこかの企業のコトバを借りれば「(メディアをWebにすることで)生産効率が格段にあがります」ということになる。

あたくしは、そのどちらもないと満足できないという体質なので、だからこそ、まだ紙にこだわるだろう。テーマの探索と書き手のアサインだけが本質的な仕事なのであれば、おれより数段上の人々がいるだろうし、もっといえばBlogやホワイトペーパーだけで十分といえるケースもある(まあ、おれの場合、いまやかなり特殊な分野になってしまっているので、一概にはいえないけれど)。

なんてことを新宿演芸場からの帰途に、しみじみ考えてしまった。

以上のことを踏まえて、さて、どうしましょう?

偉そうな言説で総括する

「いやあ、楽しかった」とかいいながら、ちょっと陰口。

結局、テクノロジー的にはPDC03とほとんど代わり映えがしないし、製品群から見るとPDC05と同じ。それぞれ、ようやく使えるレベルに近づいて来たかなあ、という感じだった。

さらに、Windows Live系のセッションがBoFでしか提供されなかったのも残念な点。うがった見方をすれば、まずはファイアウォール内のMicrosoft化(クライアント/サーバーモデルの.NET化、OfficeのOffice System化)を徹底し、ファイアウォールから外に出てゆくときは、その80%以上の陣地を確保するために腰をかがめた、とか。

でもなあ、Webの世界では、それは通用しないと思うんだけどねえ。まあ、Expressionも含めて、Mix06日本版で正式お披露目となるんだろうけど。

いやしかし、そんなことより「Developer! Developer! Developer! Developer! Developer! Developer!(ry」ではなく「ITプロフェッショナル」だという点。そんな曖昧なことでいいのかなあ。DeveloperがServer群を購入決定をするわけではないから、Developerを含む購買層という見地で言えばITプロフェッショナルというカテゴリがあってもおかしくはないんだろうけど、じゃあ、手前をITプロフェッショナルだと規定している香具師はどれくらいるのか。

拡張すればするほど個別メッセージは伝わらないものになってゆくものだなあ、と夕日を見ながら考えた。

おれもそろそろ自分が属している組織を含むところの法人が、どのようなイメージで捉えられているのかを再確認しなければ。確認したからといって何が変わるわけでもないような気がしますけど。

いずれにしても、基調講演の「4つの約束」ってのがなあ。個人的には「ここに集まってるのは開発者だよな!(イエーイ) おれらの目標はエンドユーザーに今までにない最高の体験をさせることだよな!(イェーイ) んじゃー、その目標に一緒に邁進しようぜ!(イェーイ!)」という、ある種ガサツな共闘体制に魅力があったような気がするんだけど、やっぱりネクタイの属性が強くなると変わらざるを得ないのかなあ。

ステロタイプで恐縮ですけど、よく手入れされた爪ときれいに整えられた頭髪とソフトな声で“約束”を語るネクタイ族というと、詐欺師しか思い浮かべられないのです。すみません。

とはいえ、テクノロジーは圧倒的。かつての破竹の勢いは感じられないけれど、粛々と面白いものが作られているのだよなあ。

桜庭和志を考えてみた

ふと思ったのだが、桜庭和志はグレーシー一族(という呼称もどうかと思うが)と死闘を繰り広げていたころが一番よかったのではないか。対戦相手も、レスリングの延長線上にある、いわば同じ土俵の選手たちだったわけだし。

打撃戦がメインとなる今の対戦相手とは、やっぱり勝手が違うんだろうな。

たぶん寝技・組技がメインとなる試合展開を得意とする相手と対戦していたころは、桜庭の天才性が遺憾なく発揮されて、だからビートたけしをして「桜庭は天才だね」と言わしめたのだろうけど、残念ながらそこがピーク。

桜庭が総合格闘技の天才であるならば、“まずは打撃戦でKOを狙う”展開は読めて当然で、だからこそ打撃戦の練習も重ねたのだろうけれど、それが効果を発揮しないのであれば、また、その後の展開が結果的に組技に頼らざるを得ないのであれば、それは総合格闘技の天才ではなく“格闘技”の天才だというよりほかにない。

ただまあ、(多くの報道によれば)朦朧とした意識の中で左右のパンチを繰り出し、最終的に腕ひしぎ十字固めで勝利しているわけだから、“総合格闘技の天才”へと進化する可能性はあるのかもしれない。

問題があるとすれば、肉体的な経年劣化と蓄積され続けるダメージか。

他人事ではないんだよなあ。

ヤスクニ

親兄弟姉妹が自殺した(あるいは殺された)場所はココロが拒絶する。それはまあ、当然(たぶん)。それどころか、最後に別れた場所(玄関だったり庭先だったり)であっても、繊細なヒトにとっては彼(あるいは彼女)を思い出す契機となるため、やはりココロが拒絶する。

それが、当事者(死者および生存者)から遠くなればなるほど、ココロの拒絶は一気に低くなる。これも当然だ。おれは隣の部屋の住人がアパートの階段で滑って転んで他界したとしても、その階段を拒絶しないだろう(夜になるとちょっと怖いけど)。

つまり、ある種のタブーがあった場合、身内であればあるほど、そのタブーに対する拒絶の度合いは高くなるわけだ。

そう考えると、いまのヤスクニの置かれた状況というのは、身内度の低いヒトばかりが集まってくる祭りの場でしかないように見える。代弁者の代弁を行なうためのヒトばかりというか。「イタコか、おまえら」みたいな。

その身内度の低い対象に、どのように接するのがヒトとして正しいのか。“気分”に踊らされることなく、ちゃんと考えないとまずいなあ、とおっちょこちょいのおれは考えたわけです。

というわけで、もっとも気をつけなければならないのは、いま生きてあるヒトビトだろうなあ。

“手に職”はいまも有効だった件

堀江被告を技術責任者に?。SA社藤田晋社長が発言。「裁判終わったら迎えようか」と持ち掛け「いいよ」と応じた。
「堀江被告を技術責任者に?」(Sankei Web 速報)

あれれ。あのヒト、技術力あったんだっけ? なんか漏れ伝え聞くところの話と違うんだけどなあ。

まあ、一口に技術といってもいろいろありますからねえ。金儲けの技術とか節税の技術とかムショで落とされない技術とか検察と渡り合う技術とか。

やっぱり技術職にいないとダメよ。ヒトは。

VS2005雑感

2.0ベース計画のために、Visual Studio 2005を立ち上げる機会が増えているわけですけど(ぉぃ)、なんというか、コードビハインドだのデザイン部分の分離だの、個人が楽しみで使うには見通しの悪いファイル構成になるのはどうにもなあ。

PHPやレガシーASPはHTMLの中にスクリプトを埋め込むことで、アプリケーションを実現していたわけだけれど、どうもそのほうがスキルの高くないユーザー(たとえば、おれとか)にしてみると、自分が何をやろうとしているのかが手に取るようにわかるからありがたい。

以前「海女さんレベルにならないと顧客が満足するUIをJavaScriptでは作れない」という話を耳にしたことがある。「JavaScriptでAjaxなんてのは“どれだけ息を留めていられるか”が出来に影響する」みたいな裏話(?)で、要は息を殺してそこに集中しなければならないくらい労力を要するということ。

おれぐらいのへタレプログラマだと、たいしたUIなど作れないし作る気もないから、25メートルプールを息継ぎなしで潜水できればいい。海女さんになるつもりはないのだし。そうすると、下手したらレガシーASPでも十分だったりするわけだ。

そういうユーザー向けに(Expressも含めた)Visual Studio 2005が作られているわけではないことくらい重々承知の上だけれど、実際に、ローカルでWebサービスを使ったバカアプリを作ろうと思うと、とたんに短いソースが書かれたたくさんのファイルが雨後の筍のごとくプロジェクトファイル内に散らばるのはいかがなものかなあ、という気が強くしたので書いてみました。

まあ、馴れればなんてこたないんだろうけどね。

『ポセイドン』に関する想像

CMで見ている限り『ポセイドン』はつまんなそうだなあ。

『ポセイドン・アドベンチャー』を見たのはテレビでだったけど、あの閉塞感と凝ったディテールのセットで、かなりドキドキさせてくれた記憶がある。

ところが『ポセイドン』のほうは(CMを見る限り)CGを駆使して、リアルな海の壁とか人々の転倒するリアルなシーンとか、人が墜落してゆくリアルなシーンとか、“リアル”のオンパレードなワケだけれど、そのリアルさが映画に引き込む重要なファクターになるかと言うと、どうもそんなことはないんじゃないか。

もしかするとCGを見慣れてしまったせいかもしれないけれど、それよりも「生き延びる」ことを至上命題とする人々の表情と、見慣れているはずの風景が見慣れない風景を、“リアル”に描いてくれたほうが、ドキドキ度は2倍から4倍になる(当社比)。

少なくとも「乗客は生き延びることが出来るか」がテーマである(んだよね?)以上、乗客の生き延びるための算段を過不足なく描いてくれなくちゃ。CG制作会社のプロモーションビデオなど大画面で見るつもりはさらさらないんだよね。巨大な波やひっくり返る船よりも、上下さかさまになって天井から火を吹いているかつての調理室とか、天井を通路とせざるを得ないために思いもしない障害物に悩まされるとか、船首方向組と船尾方向組の確執とか、そういうのをきっちり描いてこそのドラマじゃないかと思うのだけれど。

単純な話、CGバリバリなんだけど船外からの視線で描いた『U・ボート』なんて面白くもなんともないことはたやすく想像できるし、それと同じだろう。

「過ぎたるは及ばざるが如し」とはよく言ったものだ。

相変わらず新書ブームだそうだ

新書ブームは留まるところを知らないようで、某大手文芸系版元も単行本を縮小して新書に注力し始めたもよう。

もちろん版元だけではなく、書店も動かない(売れない)単行本よりは動く(売れる)新書のほうがいいので、単行本縮小の動きは歓迎しているようだ。単行本の棚も半分ほどに縮小し、その分、新書を導入する動きを見せている。

というわけで、雑誌はダメだけど単行本ならなんとかなるかも、という淡い期待も裏切られることになるのであった。あはは。いや笑ってる場合じゃないんだけどね。

だからといって、今後刊行する単行本を新書にすればいいかというと、もちろんそんなことはない。当たり前の話だけれど、単行本と新書は、それぞれ成立させる要因は異なる。教科書と副読本くらいの差だ。というより、新書はワンテーマムックだと思えばいいかもしれない。2~3時間くらいで読めて、なんとなくわかったような気にさせる。ブルーバックスがいい例だろう。

なんつったって、あのプロダクトはタイトルと腰巻の200文字がすべてなのだ。ホントにそれだけ。某大手出版社では、そのための会議を何時間も何時間も倦むことなくやってるくらいだ(それでちゃんと結果も出している)。

そういうタイプの書籍を月におよそ7冊出して、2冊が予想外の売れ行きを示せば、なんとかその月はトントンというのが新書。それをプロジェクトとして立ち上げ、連続して刊行し軌道に乗せるには、版元によほど{体|耐}力がなければならない。なんとなく「みんなやってるから、うちもやらなきゃ」などという定見のないところでやったところで早期撤退は目に見えている。とくに、PCやIT関連の書籍のノウハウを新書に、などという考えは捨てたほうがいい。足し算のノウハウではなく引き算のノウハウが必要だし、どこまで噛み砕いた表現で薄く引き延ばせるか、が問われる。

いずれにせよ、薄利多売型のモデルでイッパツ出るまでじっと我慢、なわけだけれど、それが可能な版元って、どこだろうな。

そういう面ではソフトバンクはやや厳しいかもしれないなあ。技術評論社はかなり厳しいかも。

ただまあ、見方を変えれば周囲が新書に目を奪われている間に“手元に置いておきたい書籍”をきちんと作れば、勝てるような気がしなくもない。何に勝てるんだか、よくわかりませんけど。

あたし? あたくしは雑誌しか知りませんから。はい。

Office Developer Conference

Office Developer Conferenceに参加するため、そぼ降る雨の中、新宿住友ビルに。

集まった面々はTechEDやMSDCなどでよく見る人々ばかりで、なんというか、マイではじまってクロソフトの(濃い)周辺ユーザーが少なくなってきたことを実感する。ちょっとヤバイんじゃないか。

本来なら、これまでOffice VBAで社内システムをゴリゴリ作っていたSIerとかコーポレートデベロッパーが集まってしかるべきカンファレンスであるはずなんだけど、どうもMVP(と呼ばれるヒトビト)がメインで集まっている。

まあ、考えようによってはVSTO Ver3ネタもあるのだから、MVPなヒトビトがいてもおかしくはないのだろうけど、サーバー関連のセッションもOfficeのセッションもVSのセッションと同じ顔ぶれってのはなあ。

しかも決して大きな部屋ではなかったのだけれど、それすら埋まらないという点も、ちょっと悲しい感じ。

セッションのネタは3月のレドモンドでのプライベートカンファレンスと同じで、まあ厳選されていたから必要なことをコンパクトにまとめていい感じではあったのだけれど、でもあれって、開発者向けなのかなあ、という素朴な疑問でいっぱいになる。

考えようによっては、WordやExcelをアプリケーションのインターフェイスとして使用し、Exchange ServerやSharePoint Serverを含めたネットワーク環境をCOM的に使用することで、全体をシステムアプリケーションと見れば、たしかに開発者向けと捉えることはできるんだけど、そこがターゲットではOffice Systemは広がらないような気がする。

てか、会場で会ったハイブリッジさんが「Expressionシリーズは、今の時点でもヒキが強いんですよ」と目を輝かせて語っていたけど、どうも眉唾っぽい。それもMVPなヒトビトが喜んでいるだけじゃないか、という気がする。

いずれにせよ、もっともっと新しいユーザー(開発者だけではなく)がマイクではじまってロソフトのテクノロジーを気にしてくれないと、マジ、ヤバイのではないか、という気がする。

まあ、杞憂であればいいんですけどね。

夜道をとぼとぼ歩きながら考えた

これでブラジルに2点差以上の大差で勝ったりしたら、日本は暴動並みの大騒ぎになるんじゃないのか。

後に「平成の米騒動」とか評されるくらいの(←事実誤認)。

それはそれで面白いけど、そうするとなんか勘違いしたままの人とかがしばらく浮遊してそうで、それはそれでイヤだなあ、とか思ったり。

まあ、いまの按配なら杞憂に過ぎないと思いますが。ははは。

VBの今後

ふと思ったのだけれど、BillGがいなくなると、BASICの呪縛が薄れてメインストリームはC#になるんじゃないかな。

まあ、すでに呪縛もかなり薄れているわけではあるけれど。

遠方より朋来る

かつての同僚がお見舞いに来てくれる。ありがたいことだ。

「花だの食い物だのを持ってきてはいけない」と事前に通告していたにもかかわらず、モロゾフのクッキーが差し入れられる。謹んでいただく。

彼は在籍中に心臓近くの血管が破裂するという、とんでもない大病を患い、あげく退職という激動の日々の持ち主だ。今は大手クライアントの仕事を受注して、パンフレットとかを作成しているという。非常にできるヒトなのだが、いかんせん大病を患ったせいで面接で合格しても結果的に敬遠されることが多く、今は一匹狼。才能がもったいない。

“職人は生き残ることができるか”といった、ここ数年頭を悩ませている問題や、ITを推し進めることは、結果的にアメリカーナになることであり、それはつまりハンバーガー的均一生活だ、といったことや、BillGがいうところのSuperCoolなごく一部の人間によるブロイラー生活はラクチンだけれど、脆弱にならざるを得ないとか、強靭な文化を形成するためには膨大な無駄(高コスト)が必要だとか、わりと過激な意見を交換する。

もちろん結論など出ない。それはそれぞれの生活の中で見つける以外にないわけだ。それでも、それぞれの論の中にいくばくでも将来的な可能性が見出せれば、足を踏み出す方向が定まる。あるいはこう言い換えてもいい。「サーバイブすることができる」

それにしてもフィラーくんといい彼といい、ホントに博学多識な人々が周りにいて、ときどき定点観測ができるのだから、おれはなんとシアワセ者なのだろう。

「インターネットがあれば、それ(定点観測による自身の位置の確認)をするのは容易だ」とする人々も多くいることは理解しているが、おれは文字に弱いので、文章を追っていると、執筆者のポジションに引き寄せられてしまうのだ。その点、会話はカウンターを飛ばせるし冗談で話をスライドさせたり思わぬ地平へと誘ってもらえるので、コミュニケートの手段としてはこちらのほうが、おれは好きだ。

まあ、冗談がきちんとスウィングする相手でなければうまくいかないのだが。

2時間近くスウィングしまくって、本日は終了。また後日セッションを行なうことを約束してお開き。

景気の先読みとビジネスモデル

長らく鉄鋼業界(というか造船業界)に身をおいていたヒトにいろいろ話を聞く。

まあ結局のところ、好況/不況は波があるものなので、不況下においていかに体制を整え(含むリストラ)、好況になったときに不況時の凹みをカバーするくらいの売り上げを目論むか、が中心課題となると。そこには「未来永劫にわたる不況は有り得ない」という認識事項があるわけだから、それこそ工場敷地内の草むしりさえ平気で業務の一環にできるわけだけれど(そういう業務を与えることで人材を確保し続ける)、では数値上、市場そのものが消滅する可能性も否定できないような状況にある場合、どのような算段があるかというと、それはやはり解体しかないという結論に達せざるを得ない。

ThinkPadを例に出すまでもなく、プロダクトを製造し続けることが企業そのものの存在を危うくするようなことは、避けなければならないわけだ。

造船業の場合、韓国や中国といった低コストで同程度の船を造る国があると、単純に「円」の競争力が大きなファクターになってくるわけだけれど(どうも1ドル=110円程度が望ましいらしい)、低コストどころか、数万分の1のコストでプロダクトのキモが流通する市場においては、従来のような“競争力”とは別のファクターが必要になる。

それはたとえば、より過激にフロンティアを求め続ける姿勢であったり、委細漏らさず仔細面談型重厚長大プロダクトであったり、カスタマイズの極致的プロダクトといったような按配になるのではないか。

すごい大雑把に言うと、マクドナルドよりもモスバーガー(あるいはフレッシュネスバーガー)を目指さなければならない(様な気がする)。消費(というよりも蕩尽)に慣れたユーザーを相手にするのは、なんというか、しんどいものであることだなあ。などと慨嘆する夕焼け時間である。

一口に“情報”と申しましても

「情報」というコトバは便利なもんで、とりあえず、なんでもかんでも「情報」。「今日は布団を干しました」が情報ならば、明日の天気も情報だし、天気図の読み方も情報だ。

でも、それら「情報」はどれだけ集めたところで「情報」でしかなくて「知識」にはならない。なんとなく「情報」が束になれば知識に変換されるような雰囲気があるけれど、それは単なる「暮らしの知恵の抜書き集」だ。抜書きはとりあえず生活を転がしてゆく上で便利だから、新米の奥さんなんかは、それに準じて恥じない。むしろ準じないほうが恥ずかしい。

正しく抜書き集に準拠した生活を送っていると、ある日、その抜書きの意味(というか抜書きが成立している事由)がクリアになったりする。「あ。だから、こうなのか」。これを「腑に落ちる」と称して、このとき、まさに情報は知識に変換される。だからといって、全員が等しく腑に落ちる(知識に変換される)わけではない。「なぜ、この抜書きが有効とされているのか」をどこかで考え続けないと、腑には落ちない。知識はあくまでも個人的体験でしかない。あるヒトにとっては「暮らしの知恵の抜書き」は拡張し得る「暮らしの知恵」となるけれど、別のヒトにとっては相変わらずの「抜書き集」でしかない。

だから、本当は「ナレッジベース=知識」ではなく、「ナレッジベース=暮らしの知恵の抜書き(Tips)」としたほうがよかったんだろう。

同様に、われわれが本当に必要としているのは(あるいは「必要としなければならないのは」)、Informationという意味での「情報」ではなくて、Intelligenceという意味での「情報」なのだ。

単なる“抜書き”情報ではなく、“考える契機となる”情報。

“正義”の御旗は今どこにあるか

昔(といってもたかだか2~3年前だけれど)とくらべて、すっかり世間が狭くなった(というか狭くした)おれは、もはやWeb界隈で繰り広げられる陰謀術策関連書き込みにはすっかり興味が失せていて(というのは、しかし言い過ぎ)、ときどき手元から目を上げて対岸(揚子江レベル!!)の火事をうっそりと眺めては、また手元に目を戻すなんて感じになっている。

ときどき烽火のような煙が上がって、それが昨日よりもあっちだとかこっちだくらいの気持ちでいると、まあ、世界はおしなべて平和だなあ。

烽火をみながらときどき思うのは「“正義の御旗”を振るヤツほど信用できねえし危ねえなあ」といったことくらいか。

これまでどおり、“正義”からはできるだけ遠いところに腰を降ろすことにしよう。

またひとつ、灯が消えた件

「これはもうダメかもわからんね。」というサブジェクトのメールがデッドマンⅡ世から飛んできて、本文にあったURLを見に行ったら、

インプレスは3月1日、インターネットを専門に扱ってきた月刊誌「インターネットマガジン」を、2006年5月号(3月29日発売)を最後に休刊すると明らかにした。
「インターネットマガジン」が休刊に(速報/ITmediaNews)

ということでございました。ははは。いや笑い事ではない。

まあしかし、リニューアルしたときに(局所的だとは思うけど)散々に叩かれて、その時点で「これはもうダメかもわからんね」状態だったのだから「時間の問題かなあ」などと手前のプロダクトは棚に上げてつぶやいてみたり。

ただ普通に、いま「インターネットをテーマに雑誌を作れ」とか言われたら、荷物をまとめて国に帰るだろうな。おれだったら。

一時代、一民族の生き方がひとつの型に結集する処にひとつの文化が生まれる。
その同じものが個人に現れる時、人はそれを教養と称する。

と言ったのは福田恆存だったと思うが、この伝でいけばおそらくインターネットはすでに文化を生み出す土壌が出来上がりつつあるから、あとは力強い文化が立ち上がってきて、リアルな文化と切磋琢磨しあえば、おのずと教養(ま、たぶんネチズンではないわな)も芽生えてくるのだろうけど、日本のリアルな文化が過去の資産を捨て去ったところで立脚している以上、切磋琢磨しあうこともできず、両者グズグズのまま、経年劣化の激しいほうが先に倒れるというスパイラルなのかなあ、などと思う。

バージョンに強く依存する雑誌を作っていて感じるのは、ホントにベラボーに多くの人々は対処療法を欲しているということだ。切望していると言い換えてもいいかもしれない。

「欲しいと思ったそのときに手元にある」あるいは「欲望が即座に解消される」状態を是とする進歩は人類の願いによって推進されてきたわけだから、この流れに逆らうことはできない。いまや1か月とか2か月と言ったタイムラグはほとんど罪悪である。であればその欲求に答える場としてWebがあればいいだろう。いずれ質も上がってくるに違いない(あるいは質を上げるための技術が登場するかもしれない)。

けれどもそうではない世界。バータリー型対処療法ではなく思考や情感を伴う分野に関しては、雑誌でもWebでもなく、書籍中心になってゆくだろう。なぜなら、文化と教養がかろうじて残存しているのが書籍だからだ。そのうえで「蔵書にとっておきたい」と思わせる書籍があれば、それがおそらく活字メディアの至高なのではないか。

もちろん「そんなお大尽型ビジネスモデルはダメ」と言われるのだろうが、おれに言わせればいまの活字メディアのあり方は「蕩尽型ビジネスモデル」なので、どっちもどっちなのだ。無理にイメージ化すれば、荒野に水を撒いて木々を夢想するか、イナゴの大群となって緑を食い尽くすか、なのである。

いずれにせよ、生き難い世の中になったことだなあ。

ActiveXがサナギになっている件

ActiveXの役割を、今後はWindows Presentation FoundationとWindows Communication Foundationが担うとすると、そりゃまあAjaxのため“だけ”のFrameworkなんて作っていられない罠。

ますますもってMIX06に参加してえぞ、こら。どっかの5万数千円も取るイベントより面白そげ。

でも、こんな場末のblogにさえ、Windows 95/98によるアクセスがある現実に対する答えは、おそらくどこにもないんだろうなあ。

蔵書という考え方を再認識した件

久しぶりに普通にまともな言説と出会った感じ。

どんな本を出しているか。

出してるかときかれると半分嘘になるが、出したいかという質問であれば、ほぼ決まってきたような気がする。

とっておきたい本、である。
「とっておきたい本」(出版屋の仕事)

じゃあ「おまえはどうなんだ」と訊かれると、それはもう牛若丸もかくやというほどの八艘跳びであさっての方角に逃げてゆかざるを得ない。まあ、雑誌屋ということで見逃してやってくれ。

もちろん、趣味嗜好は人それぞれなので「これが(誰にとっても)とっておきたい本だ」なんてことは言えない。そんなことが平気で言える奴は詐欺師だ。でも、そう言わざるを得ない局面というのがあって、だからマーケティングやリサーチも必要になる。

必要になるのはいいのだけれど、今度はマーケティングが先行するようになって「これが(傾向として)とっておきたい本(のよう)だ」で刊行書籍が確定する、なんてことになりやすい。まあそれでもいいんだけど、その場合は「それらを踏まえて、蔵書に加えたくなる本とは」という姿勢が必要なのではないかと。おれに言わせればマーケティングやリサーチのみで生まれた本ほど寿命の短いものはない。

なんてことを極度にバージョン依存する実用書関連出版業界にいながら口にするのもどうかと思うが、死んだおじいちゃんに言わせると「本ってのは、焚き付けにも適さないね」なので、要は、焚き付けにも適さない“無駄”でオアシをいただいているのだから少しは頭を使わなきゃ、なのであった。

グダグダでどうもすみません、と思ってしまった件

Guy Kawasakiが「Blog対書籍~いかにしてエントリを書くか」というエントリをあげていて、ちょっと面白かった。

面白かったのは、「(本は)blogの焼き直しなんじゃねーの」あるいは「blogのエントリをコピペして書籍にしてるでしょ」と思われているみたいなので、その反論を……、という内容もさることながら、その前日にアップしたエントリ(「The Art of Creating a Community」)の下書きを示しつつ、どのように推敲されたか見える点(もちろん、エントリの内容も興味深いわけだが)。あと、アップする前にそれをチェックするヒトがいることに驚愕。そんなの間にかませたら、おれなんか何にもアップできないぞ(まあ、そのほうがいい局面もあるわけだが)。

Guy Kawasakiの執筆スタイルは、いくつかの論点を抽出し、それら各トピックに対して私見を記述。全体を俯瞰できるような前フリがつくと、以上終了という非常にシンプルなもの。これが彼のblogのみの執筆スタイルなのか、書籍も同じようなスタイルなのかは不明。かつて、おれがMaciontoshユーザーだったころ、MacWorldでも健筆を振るっていた記憶はあるのだが、執筆スタイルはもちろん、その内容すらも覚えてないのは、きっとなにかの意思が働いているせいである(と思いたい)。

このエントリの後半もトピックの羅列とその私見になるわけだが、その中に、

If you bought the book and see a similar blog entry, then I think you should be thinking: “I'm lucky: I got this years earlier.”

If you read the blog and are thinking about buying the book, then I think that you should be thinking: “It's great that I can get all of Guy's writing in one place--fully indexed and illustrated.” Plus, if you buy the book, you can see the results of my book cover design contest which, all modesty aside, is one of the most clever ideas I ever had.
「Blog Versus Book: How I Write My Blog Entries」

とあって、思わず笑ってしまう。Guy Kawasakiのコアファンじゃなきゃそんな寛大なこと思わないっての。

個人的にうなったのは、

My goal is to write the equivalent of documentaries or feature stories.

という一文。いやもう、姿勢からして(アタリマエの話ではあるが)おれなんかとてもじゃないが比べ物になりません。おれはイチから出直すべきだと思ったのであった。

祖国についておれも考えた

介護施設におれだけとなったので、大威張りで某所のエントリをボーっと読んでいたら、

世界は病んでいて、誰もが祖国が欲しくて、2000年の長きを経ても状況はまるで
変わらない。

という一文があってしばし考え込む。

このところ小松左京の『日本沈没』(って、小学館文庫にも入ってたのか!)のラストシーンがどうにも気になっていて、それは、

「たとえ祖国を失ったとしても日本人はそのバイタリティでさまざまな土地に根付いてゆくだろう。まるで踏み潰されても生えてくる雑草のように」

といった感じの非常に楽観的な一文。記憶だけで書いているので間違っているかもしれないのだけれど。

なんでこの一文が非常に気になるのかというと、小松左京がこのような意味の文章を書いたその根拠が知りたいため。いや正確に言うと、その根拠を体感し体得したいため。

おそらく戦後のドシャメシャな時代から高度成長期を経る過程で熟成されたとんでもない自信と、幕末から連綿と続いていた知識への探究心と向上心、それに矜持に裏打ちされた根拠があったはずなのだ。

でも、いまや病んでいるという状況は同じであるにもかかわらず、世界の病とは逆のベクトルで日本は病んでいる、つまり「誰もが祖国が欲しく」ないんじゃないかという感じがしているからだ。まあ、おれのごく狭い見聞だから実情はぜんぜん違っていて、それぞれが見ている祖国がバラバラなだけ(あるいは“祖国のあり方がもはやわからない”の)かもしれないけれど。

いま日本が沈没したら、はたして日本人は“さまざまな土地に根付いてゆ”けるだろうか? そしてイスラエルのように自国(=領土)を欲しがるのだろうか。どうも日本人街どまりのような気がしてしょうがない。とても(当時の)小松左京のように楽観視できないのだ。

当時と今と、同じ“日本人”であるにもかかわらず、その決定的な差がわからなくなっている。

日本沈没〈上〉
日本沈没〈上〉
posted with amazlet on 06.02.15
小松 左京
光文社 (1995/04)
日本沈没〈下〉
日本沈没〈下〉
posted with amazlet on 06.02.15
小松 左京
光文社 (1995/04)

ちなみに、光文社文庫を選択したのはカッパノベルズで『日本沈没』を読んでいたため。このカバー(イラスト)じゃないと感じが出ないのよ。

おれは普通に生活したいだけなのだが

id:finalventさんの2006年2月14日付けのエントリ(「従うと笑われるプログラミングのアドバイス10個」=http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060214/1139900977)を読んでいて、思わずニヤリ。

個人的にはアドバイスで取り上げられていた「1)」をどうすんのかなあ、と遠くから眺めながら、「これはもうどうしようもないのかもしれないなあ」と悲観の海に身を投げているのは内緒の話だ。

今は開発環境が優秀なので、初期設計がきちんとしていれば、コードを書く奴はアルバイトでもOKという流れで、それこそマクドナルドに代表されるファーストフード店舗のアルバイト中心型人材モデルやトヨタの流れ作業を想定されたり。それじゃバンズはどうすんのよとかパテはどうするとかあっても、それこそ初期設計に基づいたバンズやパテがあればいいわけだし、なによりも実は旧来のルーチンを使いまわせば(パラメータとかプロパティの増減はあっても)OKOKという。てか、むしろ条件分岐とエラー処理でしょ、増えるのは。

で、結局は「見た目の差かよ」てなところに帰結して、「いやーコード書く奴減るねえ」なんだけど、ホントにそうか? マニュアルどおりで問題ないのか? これまでの“マニュアル系事故”の原因って、マニュアルの運用面に問題があっただけか?

「トヨタの流れ作業」は一定時間ごとにライン(工程)を変えることで、脳がリフレッシュされ、単純作業がもたらすミステイクを減らすことができる、という前提があって成り立っているのだけれど、だからといって、おそらく「設計とプログラマの工程を入れ替える」なんてことは(当然ながらいろいろ問題があって)実現できない(面白いけど)。そうすると、たとえば入出力系のコーディング担当だったアルバイトが、3時間後に今度はデータ加工系のコーディングにまわるような、そんな感じになるよね。でも内実がコピペだったら“ラインが変わる”とか“変える”とかいうことは、作業感覚としてあり得ない。

プログラミングの成果物を建築物にたとえることがあるけれど、その伝でいけば、重厚長大な住居はよほどの金持ちが趣味と時間をかけて作るものになり、そうではない(圧倒的多数を占める)ヒトビトは、雑ではないけれどお手軽感満載の世界共通同一規格型住居に住むことになるのだろうなあ。そうなれば、クギをまっすぐに打てなかろうがカンナ(≠canna)が使えなかろうが、まあなんとかなる。しょせん“なんとかなる”レベルでしかないけれど。

で、バブル期には「デザイナーズなんとか」が流行ったり、国際的な設計コンテストが行なわれて派閥が(すでにあるけど)生まれたり、コンテストに入賞した設計者が天空まで到達するような巨大でグロテスクな住居を設計したり、その住居を作成している同じ敷地内では作成しているヒトビトが住む雨風を防ぐ程度のプレハブがひしめいていたり、なによりも巨大な住居にしても規格品で構成しているだけなので、内装に金をかけたゴージャスな居間では銭湯の消失を惜しむかのように過去のアプリケーションの話題に興じていたり。気の利いたサイトは「昔なつかしのPerlアプリケーション(脆弱性アリ)」とか「手作りの良さを活かす!週末過ごすLogハウスを作ろう」とか「散らかりがちなコンテンツの収納に便利なグッズ100選」とか「集合住宅で暮らす(XOOPSのことか?)」などといった企画が目白押しになったり。そう考えると今のAjaxだのWeb 2.0ブームなんて、単に「お客様をもてなす小粋な心配り」てなところか。いずれそのうち設計者同士が談合してルーチンのひとつやふたつ減らしたって大丈夫だよ、なんてことになっていて大騒ぎとか……。

などと妄想はとめどなく広がり、“コードを書く奴が減る”とかいう話柄はどこかに消えているのでございます。

アマゾンが取次に成長しつつある件

書籍ネット通信販売最大手のアマゾンジャパン(東京・渋谷)は今春、出版社やCD、スポーツ用品メーカーなどを対象に、直接仕入れによる委託販売の受け付けを始める。書籍は現在も委託販売の形をとるが、新サービスは取次会社や卸を介さず、出版社などから直接アマゾンの倉庫に商品を預かる。アマゾンにとって利益率が高いほか、専門書など品ぞろえの拡充、迅速な配達にもつながるとみている。
「アマゾン、今春から直接仕入れで委託販売・迅速に配達」(企業ニュース/NIKKEI NET)

たぶん、販売担当者(たとえば出版社なら取次に営業に行く人だったり、スポーツ用品なら卸に営業に行く人だったり)にとっては、ちょっと朗報かもしれない。とんでもない条件をつけられたり、目の玉が飛び出るようなマージンをぶっこ抜かれないから、多少でも売上に貢献できるかもしれず。

ただ、古参の出版社だと、新参に比べて卸価格がぜんぜん違う(もちろん優遇されている。そもそも講談社なんて某大手取次の大株主だったりする)ので、痛し痒しじゃないかな。まあ、実験的な雑誌(雑誌 2.0(嗤))とかニッチだけど高収益系のものはアマゾン経由、長期にわたって売れる(であろう)書籍類は旧来どおり、という棲み分けになるのかとか思ったり。

でもよく考えると、単にアマゾンが取次だったり卸になるような気がしなくもなく。なにしろ、上記記事の末尾に、

書籍やCD、スポーツ用品など1冊、1個単位からサイト上でメーカーなどの登
録を受け付ける。売れればアマゾンが一定額を手数料として受け取り、所定期
間内に売れなければ返品する。

とあって、これって要は“手数料”と“所定期間”の設定が、どちら主導で行なわれるか、ということになるわけで。このあたりの駆け引きがきちんとできる人が、今後の(Web関連)営業のエリートになってゆくのですかね。

あ、でも考えてみれば「在庫10冊となりました。増刷100でお願いします」なんてやってる限り、いくらアマゾンを担当する営業マンが優秀でもダメか。あはは。

ACCSメソッドを活用するといいのではないかと思った件

読者からの問合せメールなどがバシバシ着弾している今日この頃だが(あ。もちろん、おれのチームの物件ではない。おれのチームは優秀なのが2人もいるので全然安心なのである)。

あまりにも読者からのクレーム(その大半が誤字脱字)が多い書籍に関しては、この際だから編集部が購読者と一緒になって文部科学省とか日教組を告訴してしまうというのはどうか。

この手法はもちろん「ヒューザーメソッド」ではなく「ACCSメソッド」である。

My Web 2.0がアップデートされた件に関して

あっちでもこっちでも“Web 2.0”で、おまけに“Beta”ですか。もはや“なんとか銀座”とか“どこそこ銘菓”ってのと同じですな。オモシロいけど食傷気味なわたくしは、今後どうしたらよいのでしょうか。教えて! エライひとっ。

とりあえず、拡張されたのは、

  • これまでの検索語句をMy Web 2.0に表示して簡単再アクセス
  • (語句につけられた)タグの検索
  • Badge(サイドバーとかガジェットみたいなもの)の導入
  • 一度に20ページものブックマークの編集
  • パフォーマンスの向上

なんてあたりか。

でもなあ、そんなにあっちゃこっちゃにブックマークを残すとワケわからなくなるし、これまでの検索語句が表示されてもあんまり嬉しくないし、そもそもポータルをそんなにたくさん持ちたくないってのがあるんだよなあ。

まあ、うすら間抜けな脳みそで考えてみるに、たとえば技術系はGoogleのポータルに、エロ系はYahoo!のポータルに、書籍系映像系(非エロ)はA9のポータルに、といったようにポータル自体を“趣味型カテゴライズ”することで、各ポータルの存在意義が出てくるかもしれないけど。そうすれば近しいヒトにマシンを立ち上げられて「あ!」とか「えっ!?」というようなことはなくなるかもしれない。ただ、今度はIDとPasswordの管理が面倒くさくなるよなあ。

で、今度はそれらを統一的にまとめるポータルサービスとかが出てきたり、RSSで一括配信してクライアントで情報を受けられますといったようなサービスが出てきたりするような予感に悪寒。

文鳥にできてGoogleにできないことはない

ペットとして身近な文鳥が中国語と英語を聞き分けることを、慶応大の渡辺茂教授(実験心理学)らが実験で確認した。サルやネズミなどのほ乳類が複数の言語を聞き分けることは分かっていたが、鳥類での確認は初めて。
「<文鳥>中国語と英語を聞き分け 鳥類では初」(社会ニュース/Yahoo!NEWS)

おぉ。なんとなく“(言語以外の)単なる条件反射”というセンテンスが頭の片隅からこちらを見ているのだが、聞き分けられるとしたほうが、世界が明るくなる(ような気がする)。

まあ考えてみればGoogleだって聞き分けられるのだから、当たり前といえば当たり前か。

“即戦力”に関する雑感

即戦力といわれても」とか「即戦力がいなくなる職場ってどうよ」とかを読んでの雑感。

残念ながら両者が語っているレイヤ(というか、見据えている先というか)が異なっているので、話が噛み合うはずもなく、だからまあ、どうでもいいっちゃあどうでもいいし、でもどちらも重要な問題を抱えている(ように見える)ので切実っちゃあ切実。

遠いところから見ると、学生を間に挟んだ綱引きなんだけど、直線(綱一本)ではなく細いのやら太いのやら膨大な数の綱が学生をn次元で引っ張っているから話がややこしくなるのだろうなあ。で、大多数の学生が、そういう状況にあるということを、認識していないことがまた、ややこしさに拍車をかけているという。

で、話はぜんぜん飛ぶけれど、この2つのエントリを読んで思い出したのは、1999年に書かれたJamie Zawinskiの「辞職そして追悼。」。

「世界を変えた」と胸を張るJamieはしかし、「それをやったのは1994年から1995年」であり、続く「1996年から1999年」は惰性で進んできただけだと続け、その理由を以下のように述べる。

なぜか? 会社がイノベーションを止めてしまったからだ。会社は大きくなり、そして大会社はどうしても創造性がなくなる。例外はもちろんある。しかし一般的に、すごいことをやるのは、動機づけが高く、目的を一つにした人たちの小集団だ。関わる人たちが増えれば増えるほど、その集団はグズでまぬけになる。

また、別の要因が生まれてくる。つまり、ぼくたちの業界では、人を二種類に分けることができる。一方は、会社を成功させたいために働きたい人。他方は、成功した会社で働きたい人だ。 Netscape の早期の成功と急速な成長により、ぼくたちには前者の人がこなくなり、後者の人ばかりが集まりだした。
「辞職そして追悼。」(Jamie Zawinski/訳=木村誠 改訂=山形浩生)

“オープンソース”の文脈でのみ語られがちなエントリだけれど個人的にはイノベーションどうのこうのよりも、

一方は、会社を成功させたいために働きたい人。他方は、成功した会社で働きたい人だ。

という一文に、妙に魅かれたものだ(もちろん“当時”。今はちょっと違う)。

きちんと言語化できないくらいだから、おそらく浅はかな直感だとは思うけれど、でもたぶん、“成功させたいから働く”と“成功したところで働く”との間には、当時想像していた以上にすごく深い溝があるのだろう、という気がする。その溝の存在が、まわりまわって“即戦力”にまつわるエントリとして浮上してきているように見える。

まあ、うちの死んだおじいちゃんに言わせると、「“働く”ということは、なかなかどうして難しい」ので、遊んでばかりのおれなど、語る資格すらなかったりするのであった。

編集作業に関する天の啓示について

編集作業ってのは、カンタンに言うと“逆セックス”である。

企画がひらめき、その仕上がり具合がイメージとして目の前に現われるとき。それが編集者にとって最大のエクスタシーである。射精の瞬間だ。

あとはそのイメージに向けて段取りに継ぐ段取りが始まる。この過程はインターコースと愛撫となる。ここでかけた時間が、その後の展開をスムーズにする。

もちろん、編集者にとっての絶頂感は終わっている。スムーズになるのは、著者やデザイナあるいは組版屋や印刷所(まあ、社内の関係各所というのもあるが)との意思の疎通であり、パラメータ(原稿であったりレイアウトであったりイラストであったり、(もしあれば)図表であったり)の受け渡しとその仕上がりである。したがって、ときどき単なる苦行になる。「企画だけなら楽しいのにねえ」などというセリフが口をつくのはこの瞬間だ。そりゃ、射精だけしていられたらどんなにラクか。しかし社会はそれを許さない。だいたいそんな状況が長く続くと多幸症になってしまう。

こうして、苦行に満ちた愛撫とインターコースを繰り返し、体験済みの絶頂感を再構成するために右往左往し、ようやく店頭にブツが並ぶと、今度はその現物に恋するわけだ(しない場合もあるけれど、それはすごく不幸な関係だ)。

ところが、恋した相手と編集者はすでに絶頂感を味わっているにもかかわらず、もはや相手はエクスタシーを与えてくれることはない。初恋であるにもかかわらず、古女房に似たポジションにいるのだ(それはおそらく編集者以外の人の手を多数経過しなければならないためかもしれない)。たしかに、恋心もキモチいいものだが、エクスタシーとは比べ物にならない。

そこで、編集者は再び“まだ人の手に触れてない”相手とのエクスタシーを夢想する。イージーな場面描写で恐縮だが、ちょうどSEXを終えてタバコを吸うような感じだ。次の編集作業はここから始まる。

“逆セックス”とする所以である。

歴史は繰り返し神は細部に宿る

このあたりは、いずれyomoyomoさんが翻訳したりするのだろうから(既訳だったりして)、まあ、そのときに読めばいいわけだけれど、こういう議論が出てくる間は、ユーザーはシアワセにはなれないだろうなあ。

問題とすべきは、現状が、

  • OSがなにか
  • 開発手法がなにか
  • 言語はなにか

なんていうことではなくて、

  • そのデータはシームレスに{読める|使える}か
  • いかにデータをシームレスに交換できるか

という局面に入っていることだ。

LinuxとWindowsを比べることは、大局的に見ればReal AudioとWindows Media Playerを比べているようなものでしかない。そうではなくて、いま一番必要なのは、Windows Media PlayerでもReal AudioでもQuickTimeでもシームレスに読める(あるいは使える)データ(ここでは音楽データ)でしかない。

たしかにWindowsにしてみればLinuxに顧客を奪われることは死活問題だから、よりリッチな環境を目指すだろうし、その中で(もしかしたら)排他的な仕組みを実装するかもしれない。けれど、排他的な仕組みの実装を遂行できるような世情じゃないことは、ほかならぬマイクロソフト自身が一番よく知ってるはずだ。

一方、LinuxにしてみればWindows以上にカンタンかつ直感的に操作できるインターフェイスを持ったOSであることが、ユーザーを拡大する最善にして唯一の方法であることも間違っていないし、それによって古参と新人がワーワーやりあってることを想像するのはたやすい。

でも、おそらくもうそれは将来的にも不毛な話なので、マイクロソフトも非マイクロソフトも(という別け方をすると怒る人は怒るだろうな)共闘して、単なるデータの表示端末として世界を再構築したらどうか。

そのほうがよほどリッチな世界になるような気がする。

遅ればせながら某所に反応してみるテスツ

クリスマスの翌日のエントリに反応するのは、さすがに遅いような気もするけど、やっぱりちょっと反応したくなったり(ということを鑑みると、やっぱりTrackBackを導入したほうがいいのかもしれないなあ)。

某工場長のご意見とはちょっと異なるけど、これからは馬鹿プログラマをどうやって救うか、ということがテーマになってくるような気がする。経済活動に密接に関わる=要するにそれでお金をいただく生産現場では特にそうかもねえ。
「デベロッパーズセキュリティ」(極楽セキュア日記)

まあ、id:sonodamさんが指摘している流れを否定する気はさらさらないのだけれど、“救う”というタームではどこにも行けないような気はする。何度も蒸し返されるネタだけれど、向上心と好奇心にあふれていて学習意欲のあるプログラマ(と、その予備軍)なら“救う”までもない。

いま必要なのは“向上心も好奇心も、もちろん学習意欲もないプログラマ(と、その予備軍)をどう使うか(あるいは付き合うか)”でしかないんじゃないか。「ひ弱なボクちゃんが海兵隊に入隊して人間として成長する」なんていう昔のアメリカ映画で見たようなシチュエーションは、ちょっと前ならアリだったかもしれないけれど、それによってプロジェクトはますます炎上し、ただでさえ低い安全性がいよいよ低くなるのは避けなければならない。

というわけで、極論してしまえば、誰がやってもたいして変わりばえのしないソース以外は触れないように(開発の本質が)なってしまうのが抜本的な解決策のような気がする。まあ、これは“大量投下大量消費”的な、ほぼ完全にアメリカナイズされた考え方だと思うのだけれど。てか、すでにどこを見ても“誰がやってもたいして変わりばえのしないソース”な状況だと思うのだけれどね。

もちろん“システム構築”のすべてが“誰がやっても大して変わりばえのしないソース”な状況だとは思わない。むしろ拡張を織り込んだ上で全体像を把握し、最大のパフォーマンスが発揮できるような配置や構成を{想像|創造}できる力や、なんらかのサービスにアクセスした際にどんなオブジェクトが立ち上がってどんなパラメータを受け渡しているのかが想像できて、似たようなサービスを創造できるようになるには、向上心と好奇心と学習意欲にあふれたプログラマ(と、その予備軍)が必要で、おそらくその数は必ず一定数存在する(だろう)。そしてその総数は、変わりばえのしないソースをいじるプログラマ(と、その予備軍)の総数よりずっと少なくてもいい。そういう意味で、

いや、逆にそういう部分にとらわれずに済むことで、もっと上のレイヤでのクリエイティビティの手助けになるかも。なってほしい。なるといいなあ

という願望は満たされるに違いない。マクドナルドの経営陣に比べて、現場の(互換の効く)バイト君はベラボウに要するという話だ(もちろん、マクドナルドの経営がクリエイティビティに富んでいるかどうか知らない)。

ちょっと前に“高速道路論”なんてのがあったと思うけど、高速道路の走り方はもちろん、その存在すらよくわかってないプログラマ(と、その予備軍)をもクリティカルなシーンで使わなければならない産業自体、どうかしているとは思うのだけれど。

ちょっとヤバイなあと思っている件

「シティロード」とか「ぴあ」みたいな即物的かつ網羅的な情報誌がなくなると、数年(場合によっては1~2年)前の状況を立体的に確認できなくなってしまうのだよね。

たとえば「音処 手刀(:チョップ/池袋のライブハウス)」の、1年前の12月の出演者情報なんて、もうわかんない。あるいはナントカというバンドの年間ライブサーキットをトレースしてみる、なんてこともできない。

「そんなことする物好きなヤツはいねえYO」という声も聞こえてきそうな気もするけど、おれにしてみれば、そういう細部があってこそのシーンだと思っているので、そこが検証/追認できなければシーンそのものがなくなってしまうのですよ。

かといって「その手の“情報”はWebでいいじゃん」という流れは、もはや留めることなどできないしなあ。blogだのなんだのをポチポチ追っかけて、手前のデータベースを作ればなんとかなるのかもしれないけど、とても網羅的にはならないし、なによりも即物性がないから、面倒くさいことこの上ない。

もはやライブハウス出演者情報だけ抜き出してストックしてゆくスクリプトを作るとかして対処するしかないのかな。そうすると、今度はWebで展開してないライブハウスとかも(いまだに!)あるから、その部分をどうするかという問題もあるわなあ。

テレビ番組情報は、「ザテレビジョン」とか「TVガイド」とかの縮刷版があるから、まだなんとかなるけれど、これもそのうちどうなることやら。

だれか、そういうポータルを作らんか。過去データも全部ストックしていて閲覧可能とか。各種クエリーを投げることができていろんなビューを表示できるとか。

Webに関するちょっとしたアイデア

たとえばdel.icio.usとかのブックマークサイト(?)にブラクラとか各種練り込みJPGとかSWFとかを、直URLで登録しておくとか。あるいは練り込みmp3ファイルを登録するとか。

mp3(というか動画も含めて)は、潜在意識に作用するような音だの映像だのを再編集をかけて練りこんでおくとか。

iPodでWebからダウンロードした音楽を大喜びで聴いていたら、いつの間にか1日5ガロンのコークを飲まなければいられなくなったり、毎日ドーナツを3トンほど食べるのが常態となったり、なにかのキーワード(とかクラクションとかの音)によってすごい勢いで凹んだり逆上したりするようになったら要注意だ。

これがホントの“マインドハック”じゃないか。なんてことを深夜に思いつくあたりが、おれのダメなところ。

ちなみに はてな だと、ブックマークしたユーザーを特定できるのでダメっぽいな。

集客に最適な方法

いやまあ、やっぱり今の世の中は“フリー:無料(≠自由)”ってのが、一番訴求力があって、実際に効果を挙げているものなのだなあ、とバカみたいに思えるグラフ。

一気に倍以上だもんなあ。ダサかろうが不具合があろうが重かろうが、ロハならなんでもいいんだろうなきっと。それが(彼らにとっての)“インターネットクオリティ”。

ちなみにこれは当エントリのポスト時点での状況。必要とあれば以下のURLに飛ぶとカレントの状況を確認できますぜだんな。

“新作イラネ症候群”について

音楽にしたって、映画にしたって、さらに言えばゲームにしたって・・・ちょっと過去へ目を向けるだけで良質で安価なものがゴロゴロしていて。あえて新作に飛びつく意味なんて皆無なんですよね。
「新作イラネ症候群」(Chained Diary)

これは、まあ気分としてはよくわかるし、“新作”としてリリースされるものを目にしたり耳にしたりするたびに似たようなことを考える。考えるんだけれど、実は全然的が外れている。たとえば、

  • われわれは、個人的な古典を欲する
  • われわれは、教養として体系付けられた素材に素直になれない
  • われわれは、“現在”を消化するだけで精一杯である
  • われわれは、時間軸上のパースペクティブを得るための成熟を必要とする
  • われわれは、体験による刺激をエスカレートさせたい

といったことが受け手側の理由にあげられる。つまり、「ちょっと過去へ目を向ける」のはなかなか困難であり、「良質で安価なもの」という判断をくだせるようになるには、相応の「悪質で高価なもの」にも手を出さざるをえないのだ。

もちろん、例外の存在は認める。認めるが例外はいくつ数え上げても例外でしかない。

さらに、上記5点に加え、

  • われわれは、自ら作り出したい欲求を抑えられない
  • われわれは、過去が生み出した魔法を体得し、使用したい
  • われわれは、手ずから世界を補完したい

と同時に、

  • われわれは、これまでの体系から逸脱した世界を作りたい

という根源的な“願い(あるいは欲望)”が作り手側にはあるからだ。

たしかに受け手も作り手も包含する、ビジネス的な側面や投資対効果を考慮すれば

芸術作品なんてのは、例え何人もの人が命削って作ったとしても、歴史上の名作に埋もれてしまえばゴミ同然になっちゃうんですよね。だって100曲聴いて1000円・・・1曲10円ですよ?

なんてことになるのだろうけど、もともと“文化”や“芸術”なんてものは、これまでのゴミの拡大再生産でしかないし、その中のごく一部が、数名の(あるいはたった一人の)感情の共鳴を生んだり受け手の世界を拡大させたり、その時代に共鳴を与えたりするだけのことでしかない。さらに時代を超えて未来のヒトビトまで共鳴させえる音や映像や文字があるかというと、いまのところ見当たらないといえるのではないか(文字の世界では、強いてあげれば「聖書」があるけど)。

とすると“新作イラネ症候群”(があるとすれば)は、現状の拡大再生産がコレまで以上にお手軽になっているということだと、おれには思われる。そして、その“お手軽さ”は作り手の姿勢だけではなく、「1曲10円ですよ?」というコトバによって、その作品の世界を切り取り消費する姿勢が熟成・促進しているのではないか、とおれは考える。

と同時に、実は「そういう姿勢でモノを作っていても(消費していても)、おれはぜーんぜんかまわないっすよ」なのである。

なぜなら、いつの世でも、(それがゴミの拡大再生産物であったとしても)かならず現状とは対極に位置するモノが登場するからだ(ま、登場するとあっという間に消費されるのも事実なんだけど。ただまあ、その消費スピードにくっついていくことが正しいのかどうかという議論もあるやね)。だから、べつに慌てることなく新作も近過去の遺物と同一地平線上に並べて観賞すればいいだけのことだ。

「あえて新作に飛びつく意味なんて皆無」と言いたくなる気分は、すごくよくわかる。だからといって(新作の)観賞を止めてしまうのは、その時点で自己の世界を拡大する作業を止めてしまうことのように、おれには感じられる。

したがって、おれは自戒の意味をこめて、これからも新作を観賞し続けるだろう。すぐ飽きるけどね。

ジョン・レノンがカッコよかった件に関して

なんで『Yer Blues』のようなムービーを検索したかというと、10日深夜(27:20~)にテレビ東京で『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』を放送していたから。

いやもう、みんな若くて笑ってしまったわけだけれど、いま再び見ると(しかもテレビで)やっぱりジョン・レノンって、カッコいいんですよ。なんというか、そのメッセージ性とかなんだとかを抜きにすごいソリッドでカッコいい。

逆に言うと、それだけ世の中の“ジョン・レノン言説”に毒されていたわけですけど。

無事コンサートのもようを放送し終わって、舞台からハケルときのジョン・レノンのお茶目っぷりは、その後、ヘリコプターの窓越しに見えるポール・マッカートニーの優等生的な演技をはるかに超えてキュート。

本も映画もレコードも、やっぱり繰り返し接するほうが発見があってオモシロい。つか、面白すぎる。

プログラム・デザイナーという呼称について

もう、なんつーか、今さら感が綿ボコリのように舞い上がるわけですが。

“プログラム・デザイナー”という呼称はすごいしっくりくる。彼らが職人プログラマといがみあうかどうかは知らないけど、

プログラマーはこれから、
プログラマー/ディベロパー/アーキテクト
といった分類よりも切実で身近な問題として、
職人プログラマー/プログラム・デザイナー/UIデザイン・プログラマー
のどこを行き着くべき場所とするのかが問われてくる。
「プログラム・デザイナー宣言」小野和俊のブログ=http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50055039.html

という分類は(今の時点では)とてもいい。

いずれ「よくわかんないけど、プログラム・デザイナーって、かっこよくなくない?」なんて感じでウラハラ系とかが大挙して流入してきたりしきたりして。そんで、

「このオブジェクト、もう少しスリムにしてくんない?」

「あ。それってマジインオタ(マジにインターオペラビリティの略)!」

なんかいってたりして。

で、職人は職人で、いつもは“むっ”としてるんだけど、場末の飲み屋で「でもぉ、オヤジさんのCは、すっごいっすよ。やっぱメモリの無駄遣いとかしてちゃダメだなあ、なんて反省するっすよ」かなんか言われて、ちょっと嬉しかったり。思わず8bit話とか128K時代の話とかしちゃって、そのうち「folkってのはね」なんてはじまって、そのころにはすっかりデザイナーは次の店で女の子と落ち合う算段とか立てちゃってて、腰が据わってなくて、「あ。あ。なんかクライアントがまたワケわかんないこと言ってるんで、ちょっと対策してきますわ。フォークはまた今度」なんつっていなくなっちゃって。しょうがないから飲み屋のオヤジと昔話で盛り上がるという。「ニフティはどこ行ってましたか」「FWINですわ」「あれ。もしかして……、ハンドルは?」

あ。すみません。仕事に戻ります。

前向きに後ろ向きな発想を評価する

店頭販売での売り上げの微減が続くようであれば、むしろ軸足をWeb販売に切り替えたほうが健康的なのではないか。

iPodによるHTTPベースでの商品流通が(局所的であれ)可能になっている現状からすれば、店頭での新規顧客増加よりもHTTPベースの顧客の増加を考えたほうが前向きかもしれない。また、その上で既存の顧客満足度をあげるほうに全力を注いだほうが、よほど正しい道筋のような気がする。

もちろんショップとて生きるか死ぬかなのだから、たとえばインストアライブや店内DJ、あるいは独自レーベルによる絶版音源の再発や新規音源の開発などに手を出すことで、より多角的/多面的な展開が可能になる。これまで中途半端にやっていたことを、どれだけ本腰を入れて取り組めるかという話か。あるいは個人商店のコングロマリット化というか。

ただし、これは巨大資本に裏打ちされていないとなかなか実現できないかもしれない。でも、appleがガレージから生まれたように、まだまだ頭を使うことで資本ゼロでも立ち上がることはできるような気もする。

そのためのIT、という切り口はもう古いですかそうですか。

終わりのない旅について

エンドユーザーの要望はいつだって未来の中に溶け込んでいる。それは漸近線のように、決して満たされることのない曲線だ。

だからこそ接点の存在を必要とする方法ではなく、イプシロン-デルタ論法のように(連続性を前提に)余裕を持たせて挟み込む手法が必要となる。

だからこそ、“BETA”表記でありLLなのだ。

WSHのいいところ

とりあえず、試験的に3日間ほど動かしていたプログラムが、意図したとおりに動作してくれているので、実稼動にまわしてみた。

久しぶりにWSH(VBScript)をガリガリ書いて思ったのは、WSHって楽ねえ、ということ。たいていのオブジェクトはOS側(あるいは導入したアプリケーション)が用意してくれているので、面倒くさいルーチンを書かずに済むのよね。などと言いつつ、でも一番大きいのは“型”を気にしなくてもいいことかもしれない。こんなアホっぽい言語をサーバー管理者に独り占めさせておくにはもったいない、などと思ったりなんかしちゃったりして。

しかしまあ、たしかにショボイっちゃーショボイ。せめてperlかRubyくらいの機能を実装してくれないかなあ。

おながいしますよ。誰かさん。

虚栄の篝火が燃え盛る

ごっつぅ久しぶりにテイルアイランドさんと会う。相変わらずのかっ飛びぶりで、挨拶もそこそこにトイレに駆け込むと30分ちかくお籠もりあそばされて、もう、どうしたらいいものやら。四谷警察署と消防署に電話をしたほうがいいかも……、と立ち上がりかけたら晴れ晴れとした顔で再登場。

その後はおよそ1時間半ほどさまざまな話をしたのだけれど、本題である企画の話はおよそ15分ほどで、あとはずーっとバカ話に花が咲く。

ご結婚後、どれだけ仕事をしても年収60万という悲哀に満ちた話に全米が泣きつつ、実はエロ絵師だったという衝撃の新事実に世界が震撼する。

まあ実際のところは、PC≒ゲームプログラミングあるいは≒ユーティリティプログラミングという時代はとうの昔に終わっていて、その層は今はWebプログラミングに移行してしまったという、いつもながらの話になった。

で、Webプログラミングといっても内実はFlash作成であり、「お!?」と思わせるようなWebアプリケーションは実はそんなに多くなくて、そこを担っているのがいわゆるgeek層である。

LLによるWebプログラミングとなると、やはりベースはUNIXだからMicrosoftの出る幕はない。サーバーがないからね。そうすると社内イントラでしか活躍の場がない(本当はあったのだけれど、市井のマイクロソフト大好き技術者たちは馴れ合いに忙しくて、そっちに目を向ける暇がなかったんじゃないかとおれは見てるんだけどね。あー、これは暴言。ははは)。

「じゃあ、どうするか」という話を長々としていたわけです。方向性はある程度見えてきたので、ちょっと年末/年始に向けてタネまきをしようかな、つかタネまきするべするべ、というところまできたわけです。転がるかどうかよくわからんけど。

あと、現場の開発者の温度差についての話をいろいろうかがう。下流プログラマ(一昔前のコーダーですね)は論外として、彼らを使ってプロジェクトを進めるヒトビトの温度差のほうが今は頭痛のタネなのかもしれない。温度差というか、カンタンに言っちゃうと、少ないツールで256倍のパフォーマンスを生かす人々とマーケティング用語に乗せられて過剰なツールで70%のパフォーマンスしか出せないヒトビトの差というか。ツールを使うことが主目的になってるヒトビトによってダメ化しているプロジェクトのあれこれを聞いて、なんとなく納得。プロジェクトマネージメント系がウケるのも、そこに要因があったのだなあ。

でも、どれも抜本的な解決策ではないからあいかわらずPMはコケると。要は、手前をバージョンアップしろ、つぅことだ。

問題なのは、手前をバージョンアップするよりもマーケティング用語に踊っていたほうが、とりあえずはラクチンという点なんだよなあ。

虚業がもてはやされる昨今、実が生み出すポテンシャルを認識し流されない、という姿勢をとり続けることほど難しいものはないもんなあ。

ニート2.0あるいはひきこもり2.0

スーパーにタイムサービスがあるように、ニートにも時間制があってしかるべき。という発想から生まれたのがニート2.0である。すなわち、午後9時から翌朝8時までのニートとか、午前5時から午後3時までニートとか。

ちなみにおれは午前5時から午後4時までの11時間ニートとして今後の人生を暗く生きてゆこうと思います。

ワタシ、今夜はタイタンになってしまいそうです

書籍コードで雑誌を作るのがアリなら、雑誌コードで書籍を作ってしまってもいいのではないか。

この際、連載だのなんだのはやめてしまって、一冊丸ごとひとりの著者にひとつのテーマで書かせてしまうというアラワザを考えたが、どうか。いや「どうか」言われてもねえ。

季節はずれの怖ろしい話

いまや広島の事件のほうに耳目が集まっていますけど、個人的には町田の事件のほうが気にかかる。いや、もちろん犯人(と目される少年)が捕まっているわけだから、この一件は少年の自供とそこで語られるであろう動機と責任能力の有無に焦点があたるのもしょうがないわけだけれど。

というか、冷静に考えると事件そのものよりも、たとえば、

近くの住民の話では、団地内では空き巣や自動車盗、自転車盗がひんぱんに起きていたという。98年9月には会社社長の男性(当時45歳)が金属製洋弓銃で首を撃たれて死亡、警視庁が殺人事件として捜査しているが未解決のままだ。
40年近く住む男性(68)は「このあたりは夜になると人通りは少ない。最近になって団地内の公園に高校生ぐらいの子たちがたむろしていた。昨夜も夜11時過ぎに少年たちがいた」と話していた。近くに住む女性は「自転車盗などが頻繁にあり治安が悪い。近くでこんな事件が起きるなんて」と声を震わせていた。
「<町田女子高生殺人>死因は失血死 10日夕以降に殺害か」(社会ニュース - 11月11日(金)11時36分/Yahoo!Japan NEWS)

なんていう記事があって、なおかつ、

これまでの調べでは、11日午前5時半ごろ、帰宅した母親の君子さん(39)が居間で死亡している優亜さんを発見した。顔や首、頭など約50カ所に刃物による傷があり、死因は失血死とみられる。10日午後5時~6時ごろ、優亜さんの部屋から「キャー」という悲鳴や、「ドスン」という音を近所の人が聞いており、優亜さんはこの時間帯に襲われたらしい。
「<町田女子高生殺人>同級生の男子を逮捕へ」(社会ニュース - 11月12日(土)0時29分/Yahoo!Japan NEWS)

という記事が翌日に出ることの気持ち悪さ。

少なくとも、

  • 治安の悪い地区で
  • 60分近くも悲鳴と騒動が続いていた

にもかかわらず、それから12時間近く経ってようやく死体が発見されるというあたりに、すごい違和感を覚える。というか、怖ろしい。たぶん「助けて」とか「誰か」とか声を上げたと思うんだけど、それに答えるヒトはいなかったわけだ。聞こえていたのに。

怖いなあ。これはホント怖い。じゃあ、どうすればいいのか、なんて全然わからないのだけれど。

ミスマッチを怖れないココロ

ミスマッチについて思いを馳せていたら、ふと思い出したことがあって、海外版元から「ハナクソのほじり方」という(邦訳未定)本が刊行されていて、扱いに困った日本の代理店がバジリコ(『へんないきもの』とか出してる出版社)にもっていったところ、即決だったそうだ。

上長と海外版権担当者にその話を聞いて、「んなら、『ミミクソのほじり方』を出さなきゃ」と言ったものの、「そういう本は、ウチからは出せないからなあ」とマジに返されたわけです。「販売部隊が血相変えて階段を駆け上がってきて、“どの棚に置けばいいんですかっ”とか言われそうだしなあ」。

「本棚に置け。ただし挿すな。平台に積め。とか言えばいいんじゃ」などと言ったものの、まあ、有り得なくはない展開が頭上30センチくらいのところに即座に映し出されたので、話は「中指でほじる奴はいるか、薬指はどうだ。親指はふつう使わないだろう」「いやいや、他人の足の親指じゃないとほじれないという奇特な方がいるかもしれない」などとバカ話に流れる。

しかしなあ、知り合いがいないから広告営業ができない部隊とか、前例(セールスパターン)がないから販売に後ろ向きな部隊とか、なんでこんなに澱んでるのかね。社会のせい? 政治のせい? 天気のせい?

生活とお仕事の二項対立について

以前、誰かが「仕事して稼いだお金で趣味を充実させる。だから意にそぐわない仕事でも苦にならない」とかおっしゃっていたような気がするのだけれど、やっぱりそういう生活はおれはダメだ。お金のためと割り切って意にそぐわない仕事に従事することはできないだろう。

というか、意にそぐわない仕事を“やらなければならない”状況に陥っても、たぶん人の目を盗んでズルをするに違いない。ズルをして、個人的に楽しめることをしてしまうだろう。

要は、“生活とお仕事”という二項対立ではなく、“時間とお金”という二項対立になってしまうのだね。お金よりも時間のほうが、おれにとっては大事だなあ。

もっとも3秒ごとに意見が変わるおれのことゆえ、明日の今頃は「やっぱりお金よね」と平気で言ってる可能性もないとはいえない。ははは。

ロビン・ウィリアムズが老けていた件

『ロビン・ウィリアムス自らを語る』(NHK総合)の再放送を見ていて、日本と彼の国のスタンダップコメディの違いを目の当たりにした。すでに指摘されていることかもしれないのだけれど、とりあえず言語化しておく。

米国型(あるいは欧米型)も日本型も、対象の声音や仕草を真似ることには変わりはない。ただし、米国型の場合は、およそ言いそうにもないこと(対象にとってタブーとされている言説やコトバなど)を、わざわざ選んで提示する。たとえば、イッパツ決めてるラビによるホモ賛美とか4文字コトバを連発しながら説教するローマ法王とか。

そうして(ここからが特徴的なのだけれど)言い放ったあと、演者は観客のレスポンスを「どうだい?」と言わんばかりの笑顔で待つ。プロレスで華麗な技が決まった瞬間のように。もし反応がよければ、そのまま過激な方向に突っ走る。反応がイマイチなら、もう少しネタのレベルを下げて(下ネタの混入率や取り上げる対象のポピュラー度、あるいはしゃべりの速度)再度提示する。あくまでも観客のレベルの最適度合いを、ネタごとに計測しフィードバックしながらステージをこなす。

いっぽう日本の演者は、物真似をする場合、あくまでも対象そのものを活写しようとする。その上で、仕草をデフォルメしながら肉付けしてゆく。そのデフォルメ具合の共感度が(なぜか)笑いに結びつくのだが、物真似やネタを提示した後の処理は欧米型と180度異なる。日本型は言いっぱなしではなく、いったん「んなこたーない」とか「なんでやねんな」といったコトバとともに、演者自身がオーディエンスに立場を変える。これによって、客席は笑うべきポイントを(暗黙のうちに)確認し、確認しきれない場合はオーディエンスとなった演者が(さらに大仰にしてみるといった)解説を加え、ネタの浸透を促進することになる。ネタの最適化ではなく、オーディエンスの最適化といえる。

欧米型はあくまでも演者としてのポジションから出てくることはなく、オーディエンスは演者が(オーディエンスにとって)最適なネタの提供を待つ。待ちきれない場合は帰るわけだ。

日本型は、演者が(オーディエンスの隣に座った)解説者としての役割も担うことで、(それとわからぬように)オーディエンスの底上げがはかられる。それによって、オーディエンスはネタに最適化され、わからないネタはなくなる。もちろん解説サービスによる最適化ができない演者はレベルの低いネタで自滅してゆくわけだ。

ネタそのもの最適化と、ネタの解説による笑うポイントの最適化。この差はとても大きい。どっちがどうだとは申しませんが。

ドン・キホーテに見る鈍感さについて

量販店「ドン・キホーテ」(本社・東京都江戸川区)が港区の六本木店屋上に建設中の「絶叫マシン」型遊戯施設「ハーフパイプ」をめぐり、同社は9日、地元への説明会を開いた。その席で、午前11時~翌朝7時の営業時間と同じ、夜通しの運行を検討していることを明らかにした。
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約80人が参加した説明会で、稲村角雄取締役は「説明が不足していた」と謝罪した一方、「あらゆる法的な設置基準をクリアし、安全対策に万全を期している」と強調。運行時間は、試運転で実際の騒音を確認後、最終決定するとした。
ドン・キホーテ絶叫マシン問題、地元説明会(社会・その他/asahi.com)

いささか旧聞に属するのだけれど、腹が立つのは「法的な設置基準をクリアし」という言い訳。騒音がこれまでの値を上回らなければOKという姿勢が不愉快だ。なぜ“騒音を減らす”という発想ができないのだろう。

そういうオトナが大手を振って生きている世の中は、やはりどうもecoよりegoが主役なのだろう。

Web2.0雑感

「あれだな、Web2.0ってのは、実は2.0に続くマイナーバージョンが1億桁くらいあって、要はヒトの数だけWeb2.0があるってことでいいんじゃないかね。今のところ」

卓見といえよう。

悲観的な話など

技術の進歩が停まって、職人芸的な技を求められるようになると、日本人は強い。活版技術なんてのはその最たるものだろう。活字の美しさと組み版の美しさ、および製版の美しさが芸術品の域に達するには、活版印刷機械の進歩が鈍化し、そこに経験に裏打ちされた人の手によるテクニックが介在できるようになるまでの時間が必要だった。そしてその世界を支えるためには終身雇用制という名の師弟制度が不可欠だった。

現状のIT業界における技術の進歩は、今のところ、停滞することなく進んでいるがゆえに、経験値がものを言う世界にはなっていない。むしろ個人差が出やすい経験値を排除する方向で進化を続けている。それがいいのか悪いのか、よくわからないけれど、すくなくとも、MacintoshでIllustratorやPhotoshopを使えるようになることと、美しいデザインを創出できることの間には、やたらと深い溝があることに思いを馳せると、美しいITプロダクト(アーキテクチャ?)などは夢のまた夢、という気がする。

おそらくお題目がセキュアなITとなろうがユーザーオリエンテッドなITとなろうが、そこは超えられないだろう。IT業界から生み出されるナニモノカが芸術品の域に達する必要があるのかないのか、その辺もよくわからないけれど、いずれにせよ、傍らに置いておきたいナニモノカになることはないのではないか。なったとして、ファーストフードならぬファーストプロダクトに馴れた身に、それが判別できるのだろうか。

それ以上に、“匠の技”まで技量を挙げるヒマのなくなった日本人は、どこまで体質を変化させていけるのだろうか。もしかすると、その判断はWeb2.0で見えてくるのかもしれない。そんなものがあるとすれば、だけれど。

どうでもいいような昔話

昔むかし「君の胸はスーパースター」という曲があったことを、どれだけのリスナーが覚えているだろう。

この曲は“とし太郎&リバーサイド”というバンドの、おそらくデビュー曲であり、当時はなにかのCMソングとしてバンバンTVから流れていた曲だ。ちょっと杉真理っぽい甘い声のボーカルと、すごくキャッチーなサビの部分がお気に入りだった。

もっとも、アルバムを2枚(だと思う)残してバンドは解散。実質メジャー活動期間は2年くらいだったのではないか。リーダーのとし太郎は稗島寿太郎としてソロに転向し、何枚かアルバムを残したものの、次第に音楽情報誌でも見かけないようになった。

それでも「君の胸はスーパースター」は、おれにとってはJpopsの名曲としていまだに忘れられない曲。あの曲にはポップスのマジックがあった。

その後、数年してから杉山清貴&オメガトライブをはじめとするJpopバンドブームが巻き起こって、各レコード会社から似たようなバンドが陸続と出てくる。そのなかに小森田実とアルファという、名前からして“柳の下のドジョウを狙ってます”みたいなバンドがいた。そのダサいバンド名のせいで、いまだに忘れずにいるわけだから、今となってはうまい命名だったのかもしれないけど、残念ながら、どんな曲を歌っていたのか、どんな声だったのか、どんなバンドサウンドだったのか、さっぱり覚えていない。少なくとも彼らの曲にはポップスのマジックはどこにもなかったわけだ。

ところが、今や見よ、SMAPの楽曲を。彼らのオーラの力を借りつつ、歌謡ポップスのマジックをふんだんに振りまくのは小森田実そのひとではないか。

とし太郎と小森田実。方や(おれの中では)名曲を生んだポップスター。方や職人芸的に歌謡ポップスを今も作り続けている作曲家。この二人の軌跡は、おれにいろんなことを考えさせてくれる。

井の中の蛙になりがちである件

「○○ができる」とか「△×が可能だ」とかいう言説には、ほとほと愛想が尽きた。たしかに“できる”のかもしれないけれど、それはある一定の条件をクリアした上で“でき”たり“可能”だったりするせいだ。にもかかわらず、その条件を提示していない言説が多すぎるせいだ。

お前らが「well known」としている条件をまずあげていただけますまいか。そうでなければproofは完了しないんだよ。

ただ、その条件を網羅すると、それだけで一冊になっちゃうしなあ。#includeみたいな形で補完しつつproofしてくのが(今のところ考えうる)ベストなのかなあ。

まあ、おれも含めてマーケッタなんて、ごくごく狭い世界で生きてるから、視野狭窄になって「これはwell knownだろう」という局所的な“常識”に頼ってしまうようになるのはしょうがないんだけどねえ。

てか、自戒しれ。おれ。

近日公開

音楽も文学も数学も、あるいは言語そのものも、というよりすべての精神活動は世界を記述するためのツールである。そしてツールの進化は、すなわち世界の完全な記述に失敗した壮大な歴史でもある。

いま、人間の精神活動がなしえなかった“世界の完全な記述”にむけて、ITが挑戦を開始する!

果たして世界はその全貌を記述されるのだろうか。あるいはこれまで同様漸近線を描きつつ失速する、他のツールの登場までの中継ぎにすぎないのか!?

今世紀最大の挑戦が新たに始まる。

カーミングスーーーーーン!!

なにいってんだかよくわからないけれど、とりあえずそーゆうこと。

歯大工さん~Return of the HADAIKU

というわけで、本日も歯大工さん参り。

昨日麻酔なしで外した銀歯の跡地を、やはり麻酔なしでガリガリゴリガリと削り、根幹への治療を施す。歯髄を取り去られて空洞化した細長い根幹に、炎症を抑える薬とかナンダとかカンダとかを塗りこむわけだ。この際、大元の神経に触れると、飛び上がるくらい痛い。そらそうだ。ほぼ剥き出しの神経に触れるわけだから、痛くて当然である。

小さなカメラで口腔内の患部を確認しながら治療していたらしいのだけど、よくまあ、こんな細かくてクリティックな作業を行なえるもんだ、とか感心する。なにしろ、最後は手先(というか指先)の技術と目視による確認なんだもんね(だからまあ、1回目の治療は失敗したわけだけれど)。

感心しながら(かつ、来るべき痛みに身構えながら)、周辺機器の性能や使い勝手がよくなったところで、ヒトの手が介在する以上、そのヒトの技術やら経験やら知識がなければ、“いかんともしがたいこと”というのはあるものであることだなあ。などと不明瞭な日本語で考える。

で、当然「それはまあしかし、歯医者に限ったことではないけれどねえ」などと、身の回り4メートル四方の状況へと思いを馳せる。

ラクテン的組織考

任意の部署が歳月を経て肥大すると、当然ルーチンワークが増え、腰が重くなる。そうするとアメーバよろしく分裂・分離することになるのだが、部署の内部から「このままじゃイカン」と自主的にプロジェクトを立ち上げ分離してゆく場合、めぼしい人材を選りすぐって出てゆくのは、まあ、当然といえば当然。

その結果、分離されたほう(本家ですな)はますますルーチンワークの牙城と化し、分離したほうは(いわゆる)インテリジェンス活動を先鋭化してゆく。で、1年も経たないうちに「あっち(本家)はインテリジェンスがないから」と分家は言いはじめるわけだけれど、それは、なんかちょっとこう、おかしい気がするなあ。

根絶やしにしといて「あそこは草木も生えない」って言ってるような。

まあ変な話、「お前ら、イラネ」とか言われた側の仕事に対するモチベーションとか、どう見積もってるんだろうなあ、なんて思うわけです。ルーチンワークはつまらないかもしれないけど、必要な業務だったりするわけで(だからフローだのテンプレートだのがあってルーチン化されるわけだし)。にもかかわらず、分家はやっぱりエリート意識を持っちゃうものなのだろうか。持っちゃうとしたらツマラン話だし、そんなことに巻き込まれるのもバカバカしい。できるだけ遠くにいたいけれど、そうも言ってられないし。

まあ、本家の皆さんも、楽天(野球チームのほうね)の例もあるので、腐らずにがんばっていただきたいところです。

Webには頭のいい人たちがいっぱい

各所の学力低下問題を憂えるエントリを流し読みしながら「みんなスゲー頭がよかったんだなあ」とうらやましく思った。おれなんか自慢じゃないが日本全国の偏差値をひとりで20ポイントほど下げてたくらい、ベラボーに頭が悪かった(というか今も悪い)ので、特段、憂えることもない。なにしろ当時は山口昌男が言うところの“ハルレキン”を指向していたので「正統派とは一線を画することだけ考え」ていたくらい頭が悪かった。そんなことを考える暇があれば、もっとほかのことを考えるべきだった、と思い至ったのは、それから20年後のことである。

それでもまあ、なんとかなっているのは、周りにいる素敵に頭のよい人と素敵に頭の悪い人たちのおかげである。そして周りにいる人たちのいずれもが、きちんと正しく生活できている人たちなのだから、おそらく基準を学力に置くことが間違っているのだろうと、勝手に思うことにした。

そうすると、おそらく素敵じゃない頭のいい人たちは口角泡を飛ばして学力問題を云々したり新たな基準を設けたり、目を三角にしながら全体の底上げがいかに重要であるかを論じるのだろうけれど、“門戸を広く開けることが全体を低下させる”という課題を克服しない限り、なんともならんだろうなあ、なんてことをTVを見ながら考えた。

というか、“適材適所”とか“少数精鋭”とか“篩にかける”というコトバを教育の現場で実践するのは、相変わらずマズイのだろうか。マズイんだろうな。

ハゼ釣りの日

というわけで、ワケあって写真のようなヘンな建物のある街に来ている。

東から西へとまっすぐに延びる線路をはさんで、駅の両サイドには、およそ東京ドーム36個分のスペースを使った広大なロータリーだ。おかげでいたるところに任意の方向を向いた信号機があり、どの信号に従えばよいのか判然としない。地元住民は平気な顔でどこかの信号に準じて移動しているが、他所者は立ち尽くすか地元住民の動きに呑まれる以外すべがない。その流れの先になにがあるのかは神のみぞ知る。

山のほうでは雷が落ちたりしているのだが天気はいい。もっとも、都内同様、湿度が非常に高く、虚弱体質のおれにはちとつらい。テレビのニュースによると裏日本方面では大雨で、新幹線が止まったりしているらしい。

広大なロータリーを有する駅前とか、ヘンな建物とか、新幹線が止まったというニュースを見ていると、やっぱりどうも、田中角栄型の政治手法から逃れるのは至難のワザなのではないかと思ったり。あるいは“地域密着型”と最近(でもないけど)流行のコミュニティってのは似てるなあとか。

それにしても、地方をトーキョー化あるいは東京のベッドタウン化することが、地元住民のシアワセに直結するという発想は、どこから降りてくるんだろうなあ。上下水道とか鉄道とか送電線とか電話線といった、インフラの敷設はわかるんだけどね。インフラよりもハブに投資するという発想がよくわからん。

なんてことを溶けそうな脳みそで考えながら、ハゼを釣る。

雑誌愛読月間について

そりゃもちろん読まれてほしいものだとは思いますけどね。だからといって、こーゆうPRは効果があるんだろうか。この吊り広告を見て「あー、そういや最近雑誌読んでないなあ。久しぶりに買って帰るかなあ」とは思わないんじゃないか。少なくともおれは思わないなあ。なんとなく、時々ドア横に見かける「世界中の人々が幸福でありますように」という短冊と同じような気がする。「何もしてないと思われると心外だから、とりあえずやっとけ」的な。あるいは駅出口のフェンスにくくりつけられた手書きの地図看板的な。

やるんだったら、せめてサンジョルディの日を上回る規模でやってもらいたいものだし、全書店を巻き込むくらい金をかけるのであれば、もっと後ろ指差されるくらいのバカなことをやればいいのにねえ、と思ったりする。雑誌12冊で他の雑誌1冊と交換とか。

「『週刊現代』12冊で『諸君』の最新号を交換してもらったー」とか「『ユリイカ』12冊と『月刊森下千里』を交換してもらおうとしたらだめだってー」とか、結構、いい感じじゃないか(えー。

なんてことをツラツラ考えていたわけですけど、これの主催元である日本雑誌協会のサイトに行くと、あーらびっくり。雑誌愛読月間期間中に対象雑誌83誌のいずれかを年間定期購読予約すると1か月分が無料になるのでした。ただし、書店によってはキャンペーンを実施してないところもあるようで、なかなかどうにも一筋縄ではいきませんなあ。

さらに、雑誌によっては「岩佐真悠子」(ポスターの女の子ね)のオリジナルマガジンカードを2005名にプレゼントだそうなので、岩佐真悠子ファンは週刊チャンピオンとか週刊アスキーとかインターネットマガジンとか週刊現代とかnonnoとか子供の科学とか日経ヘルスとかPHPとか壮快とかおとこの遊艶地とかを買って、応募シールをどんどん送ればいいと思った。

あと、注意点として、

  • 主催者・日本雑誌協会がいうところの「雑誌愛読月間」は7月1日から8月20日
  • 後援団体である読書推進運動協議会がいうところの「雑誌愛読月間」は7月21日から8月20日
  • 各種キャンペーン期間は7月1日から8月20日

ということになっているので、そもそも、ぜんぜん別物かもしれない。要は、雑誌なんてその程度のものという位置づけなのだろうなあ。やれやれ。

漠然と思ったことなど

楽天の個人情報漏洩事件の報道をぼんやり眺めながら、なんでカード会社は取引中止措置をとらないんだろう、と思った。データの保存場所の問題なのかなあ。

顔見知りと人見知り

『さんまのスーパーからくりTV』(TBS系)を見ていたら、29歳になる妊婦の「わたし、顔見知りするから」という発言に、セイン・カミュが「それを言うなら“人見知り”でしょ」と突っ込みを入れていた。いやあ、確実に日本は二層化しておりますな。

かつて(といってもたかだか60年程度ですが)、字幕スーパー付の映画はインテリ層の娯楽だったのは、たいていの丁稚や女中は一瞬で字とその意味を把握することができなかったためなんだけど、もう少しすると同じような状況になるだろう。

もはや“日本語”が持っていた文化は青息吐息。志ん朝が他界したときに江戸コトバは死滅したわけだけれど、この分だと昭和(初期)のコトバもいずれ死滅するだろう。平成のコトバがどんなものになるのか想像もつかないけれど、あまり豊かではないような気がする。まあ、おれの予想など天気予報官以下なので、杞憂であると思われるのだが。

ところで大瀧詠一は、かつて息子とのコミュニケーションがとれず“世代の断絶”に悩むオバサンに「断絶などないんです。あるのは不連続だけ」という名言を吐いていた。たしかに“過去を継承している”というのは単なる幻想なのかもしれない。

25時間テレビについて

すっかりバカと化してテレビを見続ける。

結局のところ、ことしの25時間テレビはホリエモンのニッポン放送買収に端を発するドタバタの、フジテレビなりの“オトシマエ”ということになるのだろう。進行は徹底してフジテレビのアナウンサーで固め、登場するのは系列局の社長とその社員。隙間はすべて若手芸人(タレント?)で埋め、華はベテラン芸人にもたせるという布陣が、すべてを物語っている。

最終的には“現場と経営層が一体化して汗を流すからこそ、面白いテレビ番組が生み出せる”というメッセージを表出しておしまい。裏を返せば、「好きだから」という理由だけで参加するのは、番組内の(シロート専用の)1コーナーだけにしといて。本気で参加したいのなら、それなりに(青木さやかのように)参加可能だと認定しうるナニカを培ってきて、ということだ。だから単なる成金のホリエモンはマラソンでお台場に行かなければならなかったし、すべてのフジテレビ社員は企画書を書かなければならなかったし、系列各局の社長は過剰な盛り上げ方で画面に登場しなければならない。

そして、なによりも象徴的なのは、前日から散々盛り上げつつ就任したはずの総合司会という名の当事者が、開始早々現場から逃亡し、最後に無様な姿で切々とテレビへの愛を謳いあげるという、まさに番組(というかフジテレビ)そのものを具現化したところだろう。

けれども、おそらくこれらは意図的に組み立てられたものではない。かつてタモリが27時間テレビの総合司会として「こんばんにゃ」といって登場したときに、結果的に“他愛もなく過ぎてゆくから日常は楽しい”という真理を映し出したのと同様、今回も結果的に“オトシマエをつける”ことになったのだろう。

フジテレビのすごいところは、“意図せずに意図したいことを実現してしまう”ところにある(逆に意図したものを表出するのはすごい下手なんだけど)。だからこそ、バラエティ王国なわけだ。

それにしても、とクラクラする頭で考える。1956年に「一億総白痴化」を唱えた大宅壮一は偉かった。これでライブドア株があがったら、ホントもう、ダメじゃないかと思う。

倫敦の次は

ロンドンの同時多発テロで「次は日本か」なんて声も一部ではあるようですが、どうぞご安心ください。日本は(外に対しては)「テロ撲滅」なんて言ってますけど、自国内のテロリストには破壊防止活動法案を適用することもなく、人権擁護団体の手厚い保護の下、根絶する気もないようですから。

という文章を誰かアラビア語ほかに翻訳してblogに載せてくれ。

てゆうかね、“やったもん勝ち”で、下手すりゃ(犯人にしてみれば“うまくやれば”?)検挙すらされない国になるなんて、誰が想像しただろう。そら「2~3人くらい殺してもいいかなあ」くらいの気分になるよなあ。

それにしても、これからどうなるんだろうね。

失われた聖杯について

私は半世紀以上、ハリウッドで暮らしてきました。その間に映画はサイレントからトーキーになり、テレビができ、ケーブルテレビ、ビデオ、マイクロチップが発明されました。今に、車の中の小型テレビでまたは寝室の中型テレビで映画を観るようになるでしょう。オルバニーからザンジバルまでの人々がそうするでしょう。シリコンバレーの開発者たちによるハードウェアの研究は無限に続きます。しかし、ソフトはどうするんです? スクリーンに何を映すつもりです? われわれは消耗品ではない。王国は彼らのものだが、権力と栄光はわれわれにあります。
「ソフトはどうする?」(『最良の日、最悪の日』小林信彦/文春文庫)

引用元は小林信彦のエッセー集だけれども、語っているのはビリー・ワイルダー。1986年に行なわれたワイルダーを称えるパーティでのスピーチから。

ザンジバルの人々が寝室の中型テレビで映画を見ているかどうか、おれは寡聞にして知らないのだが、インフラに関しては、まあワイルダーが予想したような世界になりつつある。悲しいことに“権力”や“栄光”の正確な所在は、2005年現在、おれにはわからない。もともとわかっちゃいないのだけれど。まあ、いずれどこからか発掘され、埃を払われてあるべき場所に祀られることになるのだろうが、どうもその瞬間には立ち会えないような気がする。

てゆうか、祀られるだけじゃダメなんだけどね。

全英オープン選手権で考えた

いやまあ、それ以上にタイガー・ウッズが大変。いい天気なのにすさまじい海風でブルったのか守りのゴルフ。「ぼくには雨の日なんかない」ゆうてる場合やあらへんがな。強風の日も練習せい、ちう感じ。

ブッシュに打ち込むわフェアウェイを大きく外すわグリーンに乗せてもピン横5メートルだわ。“タイガー・ウッズだから(あるいは、なのに)……”という呪文にかかっているせいだということは重々承知の上で、手に汗握るプレイでございました。

てゆうか、あのコースはなんだ。あれはちょっと尋常じゃない。大き目の井戸のようなバンカーに堅そうな地面。ボールを受け止めるはずの芝は短いし黄ばんでいて、土建屋の足拭きマットみたいな按配。あたしゃ、ゴルフボールがあんなに勢いよく転がってゆくさまをはじめて見ました。

コース上には平気でホテルは建ってるし、アップダウンは激しいし、グリーンのすぐ横から次のコースが始まるし、シロート目にも難関コースというのがよくわかる。あんなところを日々周っていたら、そりゃまあ精神的にも強くなるだろうなあ。リゾート地のようなゴルフコースばかりの日本とは雲泥の差、とか思ったけど、日本のゴルフはリゾートだから、それはそれでいいんだろうな。

いずれにしても、卑しくもプロを目指すのなら、やっぱり悪路はたっぷり経験しとかないとダメよ。とか思った次第。

某所では“火消ししかできない vs 火消しもできる”なんてな話で賑わってるけど、要は経験値と知識のバランス次第だし、想像力なんてのは、そのバランスがよければ伸びるし偏ってたらイビツになる、というだけの話かと思ったり思わなかったり。想像力が上がれば創造力も上がるし、それにつられて知識欲とかも上がって、ますます土壌も豊かになるとか。

輪廻転生ってのはなにもヒトの生き死にだけじゃなくて、精神的な面にもあるのではないか、なんてことを言うのは風呂敷を広げすぎですかそうですか。

Webアプリケーションについて漠然と考える

でもさあ、ホントにみんな“セキュア”を求めているんだろうか。まあこの場合の「みんな」ってのはかなりビミョーで、Webアプリケーション関係の脆弱性がもとで実際に金銭的/肉体的被害を受けたヒトは当然「フザケルナ」くらいの気持ちでいるとは思うんだけど、それ以外の、たとえばSPAMメールが増加した程度の被害だと、なんというか“それは想定の範囲内”くらいの話になっちゃうような気がする。価格.comだって、クラック前後のトラフィック量が劇的に変わったわけでもなく。

もしかすると「技術者として恥ずかしい」という意識が根付かない限り、セキュアなアプリケーションは生まれてこないかもしれないんじゃないか、とか薄っすら思ったり。でもそれすらもいずれ“アーキテクト”とか呼ばれる人たちがよしなに計らってくれるようになるんだろうから、ま過渡期ということで、なんて腰が砕けたり。

もちろん、このサイトにしたって、なんか穴を見つけられて他のサイトに迷惑がかかったらやだなあとか思うし、それはちょっと恥ずかしいですけど、だからといってペネトレーションテストをお願いしようとは思わないしねえ。

それ以上に「“守らなければならない”ものってホントはナニよ」とか。「隠したいこと=守りたいもの」であれば、そりゃあんた立ち行かないでしょ、ってことになるだろうし。だからつって、そんなものは標準化できないだろうし(ホントか?)。

いやホント、どうするんでしょうね(他人事モード)。

Wikiサイトが次のブームだって?

カンベンしてくれよ。また似たような記述が溢れかえるだけじゃねーか。

いやもう「まとめサイト」のリンク集だけあればいいから。おれは。ホントに。

それより検索エンジンの次に来るのはなんだ? やっぱり表示関連なのかな。

テスト駆動型は浸透しないな

だって面倒くさいんだもん。

最初は面白がってやってたけど(ホントかよ)、なにしろ面倒くさい。そりゃ、テスト通してグリーンになればシアワセにすこーし近づく気もするけど、Visual Basicが(良くも悪くも)築き上げてきたプログラミング文化って、そういうのじゃないもんね。部品をドラッグ&ドロップ。ダブルクリックしてエディタが立ち上がったらルーチンを記述して、はい出来上がり。

まあなんだ、そのぉ、インスタントラーメン1杯作るのに、なんでそんなに具に手間隙かけなきゃイカンの、ちう感じか。

もちろん“そうしなければならない”シーンってのはいくらでもあるわけだから、必要だと思うんだけど、PCリテラシーと同じで、「このテストが通らないと、あんたのプロダクトは使わないしお金も払わないよ」という強烈な縛りが発生しない限り、“インスタントはインスタントだもんね”派(別名:“動くんだからいいんだもんね派”)を圧倒できないんじゃないかと思われ。

それ以前に「どうせ儲からないんだからなんでもいいよ」というダークサイドからの強烈なお誘いを蹴散らす、強くてピュアなココロが必要だという気もするわけだが。

てゆうか、マジ面倒くさい。

前のエントリを書いてふと思ったことなど

前のエントリで“Amazon依存症”なんて言ってるわけですけど、そのうちGoogle依存症とか出てくるんじゃないかとか。Googleの検索に引っかかったもののみがリアルで、そこで当たらないものはマボロシである、とか。少なくとも1ページ10件表示で、10ページ進んでも見当たらなければ、そんなものはないのだ、とか。

そうすると“ゴッゴル”はリアルなんだけど、おれの妹の母親はマボロシである(名前で検索しても出てこない)ので、おれは妹の父親から生まれたわけであり(妹の父親の名前で検索したら出てきた。それはそれで驚愕の事実なわけだが)、同時に実は妹もマボロシである。という結果になる。

なるほど、年金制度が破綻しかけているのも道理である。

さまざまなスポーツ中継を反芻しつつ思ったこと

スポーツにエンターテインメントを持ち込むことと、スポーツをエンターテインメント化することは全然違う話だ。

同様にスポーツをエンターテインメントのアプローチで紹介することと、スポーツをエンターテインメントとして見せることも違う。

でも、最近はスポーツをエンターテインメント化し、エンターテインメントとして紹介することが多いので果てしなくぐったりする。スポーツをスポーツとして楽しむには、やはりスポーツをするか、スポーツの現場に足を運ぶしかないのかもしれない。

便利そうで不自由な世界であることだなあ。

チャック・ベリーと著作権について

著作権の話題を眼にするたびに、チャック・ベリーを思い出す。

チャック・ベリーがあのフレーズ(といえば、わかるヒトはわかるだろう)に対して著作権を主張したら、おそらく今のロックンロールはない。あるいはB.B.Kingがあのチョーキングに対して著作権を主張したら、ブルース(というより電気ギター)はここまで市民権を得なかっただろう。

だから著作権はダメ、というわけではない。過去の巨人の資産を発展させることで独自の世界を生み出しているわりに、ジャイアン理論による主張が目に付くのが気になる、という程度の話。

“複写”を可能にする機器が世の中に出現した時に、もっと議論しておくべき話題だったような気もするけど、まあ、いまさらですね。だからといってシラケてても先に進めないから、不幸にならない程度にシアワセな合意にいたれるアイデアを見つけたいもんです。

Excelがマルチユーザープラットホームのインターフェイスになるといいんじゃないかとか思った件について

「DOTNETNUKE」と「Community Server」のデモと説明を受ける。どちらも多人数情報整理ツールで、前者はXOOPSの後者は各種Webアプリケーションの統合ツールの.NET版。多人数というところがキモで、個人ユーザーが使ってもいいんだろうけど、あんまり面白いことはできないだろうなあ(.Textが苦にならないヒトにはいいかもしれないけど)。

そーゆうツールなら、Sharepoint Portal Serverと、どう棲み分けるのかという問題があるんだけど、それはまあOffice系アプリケーションのストレージとして使うかどうか、というのがポイントで、つまるところレイヤが違うという話になる。個人的にはOfficeで(バージョンも)統一されてさえいれば、SPSで十分だと思うんだけど、んなこたーあり得ないハナシだし、それに比べればDOTNETNUKEやCommunity Serverのほうが敷居は低いかもしれない。

だいたいコンテンツマネジメントだのKBだのなんだのといったところで、そういう“情報リテラシ(ですか?)”が根付いてないと、ツールがどれだけ進化したところでダメだし、そういう業務フロー決定権を持たないヒトビトがツールを導入したところで導入するだけで終わるから、あんまり意味ないよねえ、というところで意見の一致を見るわけですけど。

「このフローに則っらないと、給料が出ません」という強権を発動して、ようやく市場を席巻している(らしい)サイボウズを筆頭とするグループウェアに対する正しい評価が行なわれるんじゃないか。だってサイボウズを十全に使っていたら、実は使えないグループウェアだということがわかるはずだもんね。

そんなことより、大多数のユーザーは現状のビジネスシーンにおけるExcelやWordに替わるツール(しかも多人数)がほしいんだろうなあ、とういう漠然とした想像が8割くらい当たっていた(んじゃないかと思ったり)。

そういや、.NET版Wikiって、あれはどうなったんだっけ?

ちなみに「http://www.communityserver.org」のサイトは、実際にCommunity Serverを使用してサイトを作っているGoDaddyのサイトに連れて行かれる。なのでむしろ「http://communityserver.org」に行ったほうがいい。

id:jkondoとid:kowagariの相互エントリを読んで

結局、ひとつのエントリが“限りなく波紋を広げてゆき、他のエントリを誘発する”という、トラックバックの本質的なあり方を(意図の有無に限らず)具体化していたのは はてな だけだったという結論でよろしいか。

販売形態のバリエーションについて

読みたくなければ断ってください――。ダイヤモンド社は15日から、月刊誌「ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス・レビュー」の定期購読で、最大18カ月のうちに読みたい12冊を選べる新契約システムを始める。
発売日の3週間前にメールで「次号案内」が届き、内容に興味が無ければホームページの「SKIP」ボタンで、配達をやめさせることができる。日本IBMと約4千万円かけてシステムを開発した。
興味ない翌月号、ネットで「配達拒否」ダイヤモンド社(ビジネス/asahi.com)

税込みの価格は年間12冊契約より2000円高い22000円だそうで。んーと、最大18冊購入しても22000円ってことなのかな。

んで「1年12冊契約は売る側の論理。読者の選択肢を広げ、契約を10%増やしたい」と語ったそうですが、これ、選択肢を広げたことになるのかしらん。選択肢は未来にある、ということか。

年間2000円アップってのは、要は18冊で22000円だから、単に一冊あたりの単価を下げただけじゃないかと。それを10%上乗せされればペイする、というハナシか?

たとえば、年間定期購読価格はそのままで、同金額の他雑誌を毎月チョイスできる、ってほうがまだ選択肢が増える感じがするな。どの号も読みたいとなればその号分だけ振り込みなり送金なりすればいいとか。日経なんかすぐやれそうな気がしたり。広告主にしてみれば、どうせ“8誌合同企画”とかやるわけだから変わらんような気もする。

プライドについて

どんなことをすれば、爆弾を作るだけではなく、それを使わなければならないくらい追い込むことができるんだろう。

同い年の他人様を多数殺傷しなければ収まらないくらい傷つけられたプライドって、どんなプライドなんだろう。

母国語(と言語)に関して

次の世代が前の世代の言語を継承しない(できない)というのは、世界的にも当然なんだと思う(フランスのように国策として言語を守っている国を除く)。とくに日本は明治維新で一回、敗戦で一回、60年/70年の両安保闘争で一回、母国語(とその歴史)を捨てるということをやってきたんだから、継承するしない以前のハナシになる。しかも核家族化が進むことで言語継承のインフラはやせ細る。

代わりになるのはテレビだけだから、なにをかいわんや。

それでもとりあえず日常生活に困らない程度にコミュニケーションはできるのだから、いいんですよ、別に。「ちょー」とか「てらわろす」とかが母国語のメインストリームになっても。

ただ、言語活動ってのは抽象化の最たるものだから、ここが活性化しないと、極端なハナシ、脳みそが活性化しない。ホントに「オプションとしての脳みそ」になってしまう。

「では、どうしたらいいのか」なんてのは、ながらくサービスパックすら適用していないわたくしの脳みそでは図りかねるので、識者の方々の議論を待ちたいところ。

創刊誌のページに飛んでいったらどうも誌じゃなかった件について

紙媒体かと思ったらどうもWebだけっぽいなあ。

なんでWebなのに紙媒体っぽいつくりにするのかなあ。もったいない。もっともWebだからってリンク張りまくりのページだと、逆に読みづらくなりがちだからなかなか難しいのはわかるんだけどね。

高田純次の「20-30代“やる気低下”のカラクリ」はいいなあ。これはもう全面的に高田純次のでたらめさがいい。ホントにきちんと無責任なこと言ってて、ポジションがわかってるよなあ。リアルなものなんて、実は他人とは共有できない手前の五感にしか存在しないし、だからこそ他人の“やる気の低下”などという、対他の中でしか機能しない概念なんかどうでもよいという姿勢が美しい。

実際「やる気が低下してるよね」と指摘するのは、その周囲の人間で、それは基本的に、やる気がない奴がいると、

  • その分仕事が増えるから困る
  • 業務が拡大できないから困る
  • 競争力がつかないから困る
  • そいつらの分まで稼がなければならないから困る

といった、いわば周囲の思惑があるからで、「やる気がなくても生きていける」ことになっているヒトビトにとっては、どーでもいい問題だったりする。

ホントに生きていけるのかどうかは不問に付すけれど、(おれも含め)別に五感が危機を察知しなければやる気など起こるはずもなく。なにしろ周囲が「昨日のような明日が来る」ことを是とすることで成立しているのだからしょうがない。それがある種の強さになることも十分承知しつつ、でも「中流って、いやあね」とは声に出して言っておきたい日本語。

目的について漠然とあげてみる

  • 今必要な人にすぐ渡す
  • 後世に記録として残す
  • 余暇の埋め草/娯楽の提供
  • 体系的学習用途
  • 網羅型索引用途

そこを覗いてみる

VB.NET、C#などの汎用言語は、そのままでは特定アプリケーションを書くのにふさわしいだけの言語になっていない。これを特化して特定業務用途向けに変化させることで、その用途向けのプログラムを的確に書くことができるようになる。
特化する手段はアプリケーションフレームワークの構築、業務メタ言語の創造などである。これこそがアーキテクトの仕事だと思う。
VB.NET、C#はアプリケーション言語のための言語(codeseek=http://www.codeseek.net/blog/archives/2005/05/vbnetc.html)

んー。そうなのかなあ。この一文で出てくる「特定アプリケーション」というのがイメージできないんでなんともいえないんだけど(組み込み系かな?)、この考えを推し進めるとアプリケーションの数だけフレームワークとその上で走る言語が必要になりそうな気がする。

それは“効率”とは程遠いところに立つことになるような気がするし、アーキテクトの仕事って、そんなのじゃないような気もする。

いや、シロートなんでよくわからんですが。

不意に「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」という主張を思い出したりして。

逆柱に関することなど

もっとも“逆柱”にもいろいろな説があって、

柱を逆さに立てられたので恨みをいう「柱妖怪」というのもいるし、逆さに柱を立てると、そこから「葉っぱ妖怪」が出るともいう。この「葉っぱ妖怪」などは、その家の人の夢の中に現れておどすそうだ。
44.逆柱(gallery 裏百鬼夜行)

とか

家を建てるときに用いられる柱が、樹木本来の上下を間違えて(あるいは悪意から)逆に設置されることがある。こういった柱は「気」の流れを乱し、家相や運気に悪影響を与える妖怪、逆柱になるという。これのいる家は、思わぬ不幸に見舞われたり、夜中にうめき声のような軋みを立てられ続けたりするらしい。
逆柱

などという話もあって、一概に“逆柱”マンセーとは言い切れない。

ちなみに右の絵は「葉っぱ妖怪」だそうだが、フォルムがメカっぽいため、脅されるというよりは膝をはじめとするハス系の模様に“全身が痒くなる”というのが正しいのではないかと思う。

あと、「気」を乱す逆柱は、うしろに立ってる女の子の方がよっぽど怖い。

Windows XPのCMについて

もともとMicrosoftのCMって何がなんだかよくわからんのが多いわけだけれど、最近深夜枠でパワーローテーションしている「Windows XP」のCMはわからなさに輪をかけていて、無視され具合もむべなるかなといった按配。

まあ、好意的にとれば、「やりたいことややれることが、老若男女誰でもすぐに[スタート]できまっせ」ということで、うがった見方をすればMacintoshのダッシュボードの対抗CM、と想像できるわけだけれど、それにしてもわかりにくい。

その前(今も流してるけど)の「Your Potential, Our Passion」もわかりにくい。OfficeのCM「Mother Tree」にいたっては、いまだになんだかよくわからない。まあ、個人的に「Your Potential, Our Passion」は気に入っているフレーズなのであまり悪口を書くのはどうかと思うけど、うちの死んだおばあちゃんに言わせると「絵コンテはカッコよかったんだよ、きっと」ということになる。

その点、IBMのCMは、ターゲットゾーンがはっきりしているため、非常にわかりやすい。しかもユーモアまでまぶしてあって、CMとしてはいい出来だと思う。IT近辺の膨大な具象を、“いかにもそれらしい”外人サラリーマンに押し込めることで抽象化をはかり、さらに彼らの短い会話と映像によって、ターゲットが抱えている(であろう)問題や製品のセールスポイントをイヤミを感じさせずに見せている。一方、同じ土俵にいるはずのHPが善戦しているものの追いつけてないのは、膨大な具象を、IBMとは逆にそぎ落とすことで抽象化を推し進め、その結果どことも接点のないイメージの世界を構築してしまったからではないか。

Microsoftも同様で、なにしろ“老若男女誰でも”なのだから、当然誰でもわかるイメージとコトバが必要で、その結果が製作者側のイメージだけが美しく表現されるという結果になる。しかもコカコーラのCMのようにインパクトのあるイメージではないから、よけい弱い。

もしかすると抽象化を強力に進める一方で、抽象化とは180度逆のベクトルが必要だという気がする。日光・陽明門の逆柱みたいなものか。

雑談から

「開発が楽しい時代はすでに終わっていて、次に来るのはコンテンツの時代。コンテンツがひと段落すると、また開発の時代」

なんてことを平気で数年前には言うておりましたですけど、実は“コンテンツの時代”の次に来たのは“パラメータの時代”だったという、とんでもないオチはアリですかそうですか。

まあ、実際にはパラメータを送受信するための開発が必要なわけだけれど、そんなもの開発環境に任せておけば(とりあえず動けば)いいんで。そうすると実はアプリケーションなんてのは、

  1. まず動く
  2. できるかぎり多くの状況で動く(エラーハンドリングが十分である)
  3. 開発工程が少ない
  4. 必要な程度に速い

てなあたりが非常に妥当に思えてきたり。

「なんだかなあ」(by 阿藤快)

新宿巡航

朝の10:00ちょっと前には新宿にいるという快挙を成し遂げたものの、たいていの店は11:00オープンなので、1時間ほど時間をもてあますことになるという大どんでん返しをくらう。いやはや。

11:00にツタヤだのタワーレコードだのを巡航し、そういや一番DVDの品揃えの豊富なところってどこだ? という話になる。答えは(おそらく)「Amazon」で、ソレはまあそうかもしれないけど、なんかピンとこないよねえ、などという腑抜けたことを言っていたのは内緒だ。

それで不意に思い出したのは、むかし昔ソノダさんと意見を交換していた件。

やっぱりどうも“ジャケット(≒パッケージ)”というのは(おれにとって)重要な要素で、デジタル化された音楽を曲単位でダウンロードしてヘッドフォンで聞くという楽しみ方を否定する気は毛頭ないけど、画竜点睛を欠くというかなんというか、どうにも居心地が悪い。ジャケットがあってライナーノーツがあってお皿があって、それでようやく“音楽パッケージ”という古のスタイルじゃないと落ち着かない。記録された音楽を購入した、という気分になれない。

まあ、そんなものは馴れだから、「記録された音楽を購入するというのは、こーゆうことだ」と思い込むことができれば曲単位のダウンロード購入も別に気にならなくなるのだろうけど、今は無理。無理ったらムリ。てゆうか、『Tommy』だの『Pet Sounds』を曲単位で購入するってことが、もはや埒外。というか想定無い。これはジャケットがどうこう言う話以前の問題ですが。だからって、ベスト盤にようやく収録された一曲とかシングル曲とかならOKかというと、それもちょっとダメなんだよなあ。藤本美貴だの木村カエラなんか、曲単位でダウンロード購入したほうがいいような気もするんだけどねえ。まだちょっと敷居が高い感じ。

そういった意味も含めまして、初物は街のショップに出かけてごっそり買い込むことになるわけですが、今回の巡航(DVDだけでしたが)は珍しく収穫ナシ。探し物は今月中旬以降に出荷だそうですし。

というわけで、12:30には帰宅して、あとはテレビを見続ける。バカじゃないか。

よくわからんこと

無知を承知で書くけれど。

C#がJIS規格に乗ったわけだけど、そうなると基本情報技術者試験のJavaの扱いってどうなるんだろうね。やっぱり終焉の方向に向かうんだろうか。孤高の言語になったりして? んなこたーない。

マイクロソフトは、まあ大喜びなんでしょうけど、一方で、Cωなんてのを温めているわけだから、どうなりますやら。JIS準拠のC#とマイクロソフト独自仕様のC#なんてのが出てきそうな気がしないでもなかったりしますが杞憂ですかそうですか。

とりあえず、学校(教育機関)への.NET(というかC#)浸透作戦の突破口は開けたわけで、あとは、たとえば基本情報技術者試験での採用による実績と、それを手土産にした学校への侵攻が始まるわけですよね(って、誰に訊いてるんだ)。

なんとなく浸透する前に日本のIT産業自体が衰退しちゃいそうな気もするんだけど、それはそれでしょうがないか。“やる奴はやる”から、いつまでたっても少数精鋭で、そういう状況は今に始まったことじゃないし。

まあ教育機関で教える現実界に近い教科ほど、現実離れしているものはないからなあ。というか、ようやくわかったのは、学校ってのは考え方の基礎体力をつける場所であって、実社会向けの学習はその後についてくるものだってこと。基礎体力がない学生に実用性を重んじた学習内容を与えると、世故に長けた奴ばかり製造されることになる。その結果、妙にセコイ奴ばかりがのさばってるのだろう。学生時代、遊び呆けていたおれも、ようやくそのあたりがわかってきたわけです。ははは。

写真はイメージです。

フジテレビ蕪

おれがホリエもんだったら、必ずじわじわと買い進めるね。だって、これは(彼らにとっての)戦争なんだから。

相変わらず現実逃避している件について

気になっていた細かいところを修正。過去記事表示用の引数(文字列)とか、表示後の順番とか。

カテゴリから飛んだときも表示の順番を変えたほうがいいのかな。過去記事の参照は明確に時系列で読むこと(誰が?)を前提としているから古い記事が最初にあってもおかしくはないんだけど、カテゴリで見る場合ってどうなんだろうか。“該当カテゴリに関する変遷”という視点に立てば、古いものが最初に来るのが正しいような気もするけど、カテゴリの場合は新しいものが最初に来たほうが健全な感じがする。これはきっと「通常のコンテンツから任意のカテゴリだけを抜き出して読みたい」という意識のせいじゃないかと。

  • 通常のコンテンツ=現時点から過去へ
  • 通常のコンテンツから抽出したカテゴリ=現時点から過去へ
  • 過去記事=過去から現在へ

とすると、日付指定で表示させた場合も、エントリを過去から現在へと並び替えたほうがいいな。……、というわけで直して。

えーと、あとはポストしたコンテンツのタイトル一覧と、検索機能をつけたほうがいいかもだなあ。

リッチクライアント

「リッチクライアント」について話すとき、“誰にとってのリッチか”という視点があいまいなままだとずーっと話が噛み合わない。まあ、リッチクライアントに限らないんだけど。

大雑把に分けると“業務系エンドユーザー”にとってのリッチクライアントって、やっぱりOffice製品(とくにExcel)だろうし、Webで見聞を広げる ;-) ユーザにとってはFlashバリバリのサイトだったりするんじゃないか(あたしは古い人間ですのでtextで十分なんですが)。てことは、イントラネットのリッチクライアントとインターネットのリッチクライアントは分別して考えたほうがいい。その場合の“リッチ”は、“機能”と“表現”に大別されてしかるべきで、そうすると、おのずと手前の立ち位置が明確になる。というか、なった。

今さらなにを、という話だけれど、これはおれの頭の回転速度に深く依存する問題なので、その点をご留意いただけるよう、関係各位におかれましては、なにとぞよろしくお願い申し上げるしだいです。

ミーティング後の雑談から

たとえば、「サービスパックがリリースされた」という情報(?)をAさんが自身のblogでアップする。Aさんのblogを読みに来るその他大勢が、Aさんのネタを引用してblogに書き込む。書き込む内容は「サービスパックがリリースされた」。

これらのblogによって、なにがわかるかというと、サービスパックがリリースされたこと。それを適用することで、なにがどうなり、どれがどんなことになるか、という(おそらく本当に必要な)情報はどこにもない。で、そういう情報は一部の濃いメーリングリストとか、社内KBに蓄積されておしまい。もちろんgoogleさまの目には届かないところでの蓄積だから、知り得る情報なんて、実はたいしたことがなかったり。

今のblog熱が続く限り、この流れは止まらないだろうなあ。

同時に、日本のコミュニティの成立方法って、良くも悪くも御神輿型だから、結局、神主と神主の直系数名が造った神輿を担ぐだけで、その神輿の派生型を造ってさらに広げてゆく、なんてことは期待できない。blogとかmixiとかって、その分布状態を可視化するツールになりかかっているような気もする。

もちろん、やたらと濃いネタを延々と記述している(濃いネタしか取り上げない)bloggerもいるから(でも、どうやって暮らしているんだろう?)、それはそれで機能していたりはするし、RSSがもっと過激に流通すれば、これまでも何度もあったように淘汰の波がTSUNAMIのごとくそれらを押し流すことは想像に難くない。つか、すでに淘汰され始めているわけで。

ということを踏まえつつ、翻って弊社を取り巻く出版業界を見てみると、今の時点で整理統合を進めつつ、3年先を見通して動かないとダメなんじゃないかと思ったり。けど誰が3年先を読むのよ、とか。誰が整理統合するのよ、とか……。

面白かったのは“スキルトランスレーション”というコトバ。

「IT産業だと、これまでのバブル期に流入した社会人、たとえば“よくわかんないけどとりあえず花形っぽいからプログラマ(SE)になりました”とかいう奴は、自己の存在価値を高める努力をしないため、バブルがはじけた後の身の処遇ができない。今後、中国/韓国とかに仕事が流出し始めると、堰を切ったように仕事が流出し、日本ではとても食っていけなくなる。それをどう考えどう動くか、という思考回路が働かない」のだそうだ。

出版も同じで、なんとなくTVドラマに憧れて(とんねるず!)あるいは不況に強いってんで出版社に来た連中ってのは、たしかに使えないもんなあ。

てゆうか、こーゆうのって、個人型リスク管理じゃん。それができないってことは、やっぱりセキュリティなんか無理だよという話に落ち着いたりするわけ? やれやれ。

重み付け

空疎なコトバと稠密なコトバを分別することは可能だろうか。

不可能だろうな。

だからこそ、稠密なコトバを紡ぐように努力したほうがいいと考える。

もろびとこぞりて

いやー。今日はいいお天気ですよ。夕方から雪とか言われてますけど、ホントかいなって気がしますね。

つか、人間は外に出ないとダメですよ。空の下に出ないと。手前は空と大地の間にへばりついているゴミみたいなもんだっていう認識を持ってないと、視野狭窄に陥っちゃいますから。どうせおれらは下水管に目鼻なんですから。下水管なりに楽しまなきゃダメでしょ。やっぱり。

憂鬱な月曜日の会議

どうでもいいっちゃどうでもいいんだけど。

要はどんな局面でも中途半端な判断は最悪の結果しかもたらさないということですな。

つか、月曜日の会議ってのは、ホントにいろんなことを気づかせてくれます(嗤)。

Fotolifeについて淡々と書くよ

はてなの「Fotolife」が面白い。Fotolifeのトップページ(http://f.hatena.ne.jp/)を表示させて、Flushにまかせて見知らぬ誰かがアップした写真をボーっと眺めているだけで、勤務時間が終わってしまうくらい面白い。

他人様の家でその家のアルバムを渡され、家族旅行の写真を見ることは苦痛だけど、Fotolifeには他人様の生情報が非常に希薄なため、安心して見ていられる。しかも、(当たり前だけど)写真集のようにカメラマンのトーンが一定ではないため、飽きることもない。会ったことも会うこともないだろう、さまざまな人々の画像(これがまた無防備なんだよね)とか、行ったことも行くこともないだろう路地の画像とか、ホントに見飽きない。

なんつーか、おれはつくづくテレビっ子で、プッシュ型のメディア配信に慣れ親しんでいるんだなあ、と思ってしまった。

あと、写真サイトだと、ここも面白い。

社会基盤のリコンストラクト

企業を単なるモジュールとみなすことは可能だろうな。プロトコルは“金(≒株価?)”か。で、パラメータは、

  • コンテンツ
  • プロダクト
  • インフラ

か。

つーか、IT企業と見るからダメなんで、総合商事を目指していると考えるほうが正しいんだろうな。ただし、実業ではなく虚業のほうがクローズアップされるから胡散臭いわけで。それと、Lindowsにしろ弥生会計にしろ、彼らが買い取って業績が伸びたパラメータって、あったっけ。おれはないと見ているんだけど、個人投資家の動きには、期待感があるようなので、俺の知らないパラメータがあるんだろうなあ。

いやまあ、それはともかく。社会基盤をモジュール化によって整備しなおすという思考実験を誰かやらんか。おれは結末が怖いのでやらないけど。

XBoxの逆襲

へえ。

米マイクロソフト(MS)は24日、同社の据え置き型ゲーム機「Xbox」の次世代機向けのソフト2作品の制作に、人気ゲームシリーズ「ファイナルファンタジー(FF)」の生みの親として知られるゲーム制作者・坂口博信氏(42)を総監督として起用することを明らかにした。ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)、任天堂との「三つどもえ」となる次世代ゲーム機争いで、MSは有力ソフトの制作者取り込みで先手を打つ。

2作品はいずれも異なる登場人物によるロール・プレイング・ゲーム(RPG)で、坂口氏が率いる創作集団「ミストウォーカー」がシナリオや音楽、デザインを担当。MSが制作・販売する。このチームには著名なゲーム音楽作家も加わるという。
ファイナルファンタジー生みの親、坂口氏がMS陣営へ(経済/asahi.com)

有能な研究者や開発者を貪欲に取り込むのはMSのお家芸だし、ゲームを全然やらないおれにとってはどうでもいい話なんだけど、よく考えたら(考えるまでもなく)この手法って、今まさにホリえもんがやってるのと同じなんだよね。手前んとこにないのは買うってのはさ。

ということは、「ホリえもん≠オープンソース(≒ないものは作る)」(誤認識も甚だしい)という発想から非常に遠い存在ってことか。あると便利なものには金を出して使うという発想は、今の流れからするととても正しいのだけれど、ただそれって購入した側が便利(有用≒シアワセ)なだけということを忘れちゃいかんよなあ。購入した側の株を取得すれば、購入してない大多数も多少は便利(≒シアワセ)になる、という理屈は一般化できるんだろうか?

いやまあ

どうでもいいんですけど。

今のテレビって、そんなにみんな真剣に見てるのかね。環境ビデオっぽく垂れ流しにしてるかバラエティ中心なんじゃないのかね。

そんなところに「インターネットと融合させてよりビジネスチャンスを作ろう」っていうお題目は、なんとなくいい感じに聞こえるけど、実際にインタラクティブ性を増量してたとえば出演している俳優の衣装をその場で購入するとかさせた場合、それって結局ドラマやバラエティ(一部の情報番組)のみが活性化するだけで、報道番組はどんどん減るんじゃないかな。報道番組が増える可能性は、よりグロテスクなネタに走った場合だけのような気がする。それは下ネタってことではなくて、それこそ個人情報に突っ込んだネタというか。あるいは差別感を増幅させる内容になるとか。

本質的に突っ込んだやり取りをインターネットで絡めて行なう、ってのは今すでに起こっているわけで、おそらくそれ以上でもそれ以下にもならないような気がするし。

もっと別種の共存の方法があるはずなんだよなあ。それこそインフラとしてのインターネットが音楽流通と音楽のあり方を少しずつ変えているように、映像コンテンツの流通方法がインフラとして電波に依存するのかインターネットも参入できるのかという話のほうが、少なくともおれには現実的に聞こえるけどなあ。

それはもう、ニッポン放送を買うとか買わないとかいう次元じゃなくて、電波同様インフラは整いつつあるんだから、むしろお客さんに対してどんなコンテンツとサービスを提供できるのか、インフラが持っているメリットとデメリットから検討しましょうってことだと思うんだけどねえ。

まあ、本気でどうでもよかったりするんだけど。

コンピュータリテラシはどこに?

某著者と話していたら、案の定「最近のプログラマは……」系のネタになった。ヘラヘラしながら聞いていたところ、「今のアメリカの状況って、近い将来の日本だと思います」とか言われて驚愕。

「今のアメリカ人って、プログラム組める人のほうが少ないんですよ。まあ、頭のいい奴は図抜けてすごいんですけどね。でも大半のアメリカ人はソフトウェアの大ラフを描くだけ。それにあわせて在米インド人がデザインしたり在米中国人が仕様書書いたりプログラム組んだりしてますから。彼ら(移民)が優秀だからもってるようなもので。アメリカ人がデザインしたり仕様書書いたりプログラム組むところに加わったら、これはもう100%動かない。というかいつになってもソフトウェアがあがってきません」

ホントかよ。おい。

てことはあれか。ここ(=http://www.moj.go.jp/PUBLIC/NYUKAN19/pub_nyukan19.html)とかで語られている「高度人材を始めとする専門的,技術的分野における外国人労働者の一層の受入れなど我が国が歓迎すべき外国人の受入れ促進」ってのは、現状を憂えた結果の話か。

んー。“コンピュータリテラシがないところに開発ツールだけはすごいのが導入されちゃったせいで今の体たらく”という見方を改めるべきなのかなあ。少なくともアメリカはコンピュータリテラシがあったから、まだ開発ツールが進化しても追随できていると思っていたんだけどなあ。かつがれているのではないか、という疑問も残るのだが、世界的にそうなんですか。いやはやなんとも。

アドイン

「FirefoxのサイドバーでFlickrの写真をチェックできる」(=http://kengo.preston-net.com/archives/001793.shtml)なんて記事を、IEにもこーゆう類のアドインがドハドハ出てくると嬉しいなあとか思いつつボーっと読んでいたわけですが、不意に「別にIE(Webブラウザ)じゃなくてもいいじゃん」ということを思い出してしまいました。なんというかXMLで流れてくるのであれば、OSがアグリゲートしてUIはユーザーが作ればいいわけで。間をどうするかっつう話もありますが。

もっとも、それにはLonghornが出てこないとダメなわけですけどねえ。

ライブドアパブリッシングのこと

「Webのコンテンツをまとめて書籍にすると売れるかもしれない」という思惑が、ちゃんとお金が伴うようになってきたのは、(思った以上に時間がかかったけど)まあ欣快。とはいえ、先のデータベースを見る限り、やっぱり“ほぼ日(≒糸井重里)”強しで、これは当たり前の話だけれど、コンテンツ集積所の中に編集者的な視点を持った人がいて、最初から意図的に選別や加工を加えないと、あまりよろしくない結果に終わるんだろうなあ、たぶん。と強く思うました。

ここからは“当たり前”として語られることが多いネタなので、すごくツマンナイ話になるのだけれど、やっぱり「エキサイトブログニュース」に端を発する“ネットご近所付き合い”のあり方で露呈した、「サイトを更新するのが楽しいから更新してるんで、それを読みに来る人のことまで考えないでしょ。フツー」というblogでは当然の発想がある限り、blogはblogであり続けるし、紙メディアがそこに便乗しようとしても成功する率は低いんじゃないかという気がする。話はblogに限らないけど。

要は書き手が商業ベースで思考できるかどうか、出版社側は小さなちいさなコミュニティで流通しているデータを商業ベースに展開(あるいは育成)可能かを見極めることができるかどうか、ということに尽きるんじゃないかと思うわけですよ。

その意味で、ライブドアと幻冬舎が手を組むというのは、すごくわかりやすい。新人発掘が進まない幻冬舎にしてみれば、Webの有能な書き手にたやすくリーチできるようになれば御の字だし、同時にタレント本も作りやすくなる。彼/彼女たちに、まずはblogにエントリーさせればいいんだから。そのためのインフラとしてライブドアが機能するなら渡りに船。月刊カドカワとか野生時代(あるいはバラエティ)を産み育てた連中にしてみれば、取次ぎを必要としない、でも同等のインパクトを持つメディアだし(相手はこれまでのようなマスではないけれど)。

一方、ライブドアは、死に体とはいえ相変わらず権威のある紙媒体への昇華を可能とする道筋が付けられるわけだし、同時に幻冬舎経由で客寄せパンダを連れ込むこともできる。ほりえモンは取り立てて書籍に思い入れがあるわけではなさそうだから、むしろコンテンツ集積所に編集者的視点を持った人を導入したかっただけなんじゃないかと思う。そのうえで商業ベースの思考でblog(なりコンテンツ)を更新できるようなユーザーを増やしたいのかもしれない。もちろん、幻冬舎がもっているパスを使って既存の作家を取り込もうともするだろう(でも、片岡義男のサイト「今日という昔」みたいに、ダメダメになる可能性のほうが高いんで、既存の作家の取り込みはないだろうなあ)。

いずれにせよ、ライブドアにとっても幻冬舎にとっても、机の上の話としては滋味溢れるオイシイ話だったんだろうなあ。てゆうか、老舗の文芸系出版社でもなく、もちろんPC系出版社でもなく、“風雲児”と呼ばれる見城徹のところを選ぶってのが、なんとも逝けてる。これでライブドアの市民記者を束ねる役で花田紀凱が参加すれば、とりあえずスリーカード。あと誰が来ればフォーカードになるんだか、あるいはフルハウスなんだかよくわかんないけど。

でもさ、有能な書き手って、母数が大きくなってもそんなには出てこないよ、きっと。有能な読者がいない世界に、有能な書き手が存在できるなんて、ありえなくない?

ぼくたちの好きな近藤さん

なんでぼくたちは近藤さんが好きなのかというと、きちんとハッカーであるうえ、彼が語る言葉はキュートでロマンチックだからだ。

単なるハッカーなら、ぼくたちの周りにたくさんいるけれど、そのうえキュートでロマンチックな台詞を気後れすることなく口にできるハッカーは彼くらいしかいない。それが彼を数少ないハッカーの中でも希少な存在にしていて、そのコトバ(と技術)にぼくたちは惹かれる。あるいは、そのコトバによって技術は明るいビジョンという命を吹き込まれる。そこにぼくたちはしびれる。

彼には数々の名言があるけれど、最近の「幸せはデスクとベッドのあいだにある」なんて、珍康化にも松井五郎にも書けないくらいロマンチックだ。そしてその幸せを実現させるための道具として技術があり、はてな というサービスが語られるとき、ぼくたちは はてな市民になろうと思うし、そこで展開されている技術を愛そうと思う。

ビジネスという側面も必要だけれど、危ういくらいに青臭いことを平気で口にできる技術者も必要なんだ。今はとくに。

「サッカー選手が一本のパスで与えられるファンタジーの総量は、果たしてどれくらいなのか」と書きつけた某氏に激しく同意する者としては、だからこそ、技術とそれが表現しうるファンタジーを語りたい。

某氏は先のコトバに続けて「ひるがえってわたしたちの仕事にどれだけの人がファンタジーを見出してくれているのか」と書くのだけれど、幸運なことにぼくはファンタジーを見出せる(蜃気楼かもしれないけれど)。だから、もうしばらくぼくは近藤さんを好きでいられるし、技術を追いかけることができる。できるだろう。できるんじゃないかな。ま、ちょと覚悟はしておけ。

データは放流しておくべきか定着させるべきか

悩ましい。

結局、XMLでデータが流通し、それを定置漁よろしく取得することで必要な情報を得ることができるのであれば、別に紙に定着させる必要はない。たしかに、

  1. 紙はディスプレイより解像度が高い
  2. 紙はCSSやHTMLより自由にレイアウトできる
  3. それらがユーザー環境の影響を受けない

といった利点が紙にあるにせよ、でも、それだけでOKではないというのが、今なんだ。

たとえば、「ディスプレイより解像度が高い」とはいえ、ユーザーの手元で印字してしまえばOKなわけで、つまり「ユーザーの環境に影響を受けない」代わりに、ユーザーが好きに加工できる、という利点のほうが(もしかしたら)紙の利点より上回っているかもしれないのだ。

決定的な利点はどこにあるのだろうか。

開発現場-情報システム部門-SIer

開発現場と情報システム部門、それにSIerのトライアングルの中で、情報システム部門が業務革新のスピードアップに伴うシステム変更スピードについてこれなくなったのではないか、という指摘。

相変わらず頓珍漢なエンドユーザーの子守りだのセキュリティ対策だのをしつつ、その上さらに勉強しろってのが、そもそも酷な話で。ただ、その一方でセキュリティ対策にかこつけて変革から目を背けている情報システム部門や、わざわざ苦労の多い、趣味に走ってるとしか思えない情報システム部門もいたりするわけで、このあたりがなんとも。

おそらく今一番重要なこと

あらゆる局面においてキチンと考えないとダメだよというメッセージを、考えることなく理解できるように提供すること。

Who is MVP?

マイクロソフトにとってMVPの存在価値とは何だろうか? 「優れた批判を得るため」とオドリスコル氏は語る。「マイクロソフトは製品開発でネガティブな意見に注目します。この意味で、中立な立場にいるMVPの意見は貴重です」。。
加速するマイクロソフトのコミュニティ支援。その狙いは?(Insider's Eye/Inside.NET/@IT)

米国ではβテスターではなく、技術を扱うものとして当然もっている批評精神でプロダクトを見ることができるヒトビトをMVPとしていることがわかる。では、翻って日本の現状はどうなの? ってのが知りたかったけど、さすがにそこまでは突っ込めないやね。

日本特有の状況として、情報システムの管理運用を担当するITプロフェッショナルを例に挙げてコメントしているのが以下。

「ソフトウェア開発者は、会社の垣根を越えて自分の知識をシェアしたいと考える傾向が非常に強く、またそれが可能です。これに対してITプロフェッショナルが扱う情報は企業機密に属するものも多く、会社を超えてシェアするのは難しいようです」と沼口氏。
加速するマイクロソフトのコミュニティ支援。その狙いは?(Insider's Eye/Inside.NET/@IT)

そうかなあ。会社に属さない部分での知識は披露するけど、というより会社に属する部分の知識だろうがなんだろうがたった今必要な知識は取得(≠習得)したがる開発者は多いけど、管理運用に関するノウハウはそれ系のML見てればわかるように、かなりの量で流れているんだけどなあ(とくにセキュリティ関連)。単純にKB化しにくいだけなんじゃないかと思うんだけどね。それこそ、会社ごとのケースがあるから。それを“企業秘密”というキーワードで一括するのはどうかと思うなあ。まあ、別にどうでもいいけど。

ところで、日本にITプロフェッショナルってのは、どのくらいいるんだろうか?

朝日 vs NHK

朝日新聞とNHKとどっちをとるか、つったらNHKなんだよなあ。受信料払ってないけど。

雪印みたいに、購買層が朝日新聞に対して不買運動を起こさないのは、不透明度が高いという点も無きにしも非ずだけど、それ以上に朝日新聞もNHK同様、プッシュ型のメディアだからじゃないだろうか。

で、NHKの不払い運動というのはもともとあったわけだけど、もしかすると「巨人×阪神戦」のチケットとか洗剤とか石鹸とか「今払ってくれたら最初の1か月分は無料にします」とか、おまけ攻撃を行なえば不払いもそんなに拡大しなかったかもしれない。もともと払わない視聴者は民放の刺激の強い番組ばっかり見ていて、NHKは見ない層なんだからしかたがない。むしろ、ちゃんと見ているにもかかわらず払わない層が払いやすくする算段を立てるほうがカンタンだったのではないか。

一方の朝日新聞は、やっぱり腐っても朝日なわけで。しかも、それが毎日届けられる(最近はそうでもないけど)となると、物理的に家屋の一角を(読もうが放置しようが、どっちにしろ)占めるようになり、それはつまりモノとして存在しているわけだから「やっぱりお金は払わないとまずいかも」という、ややあきらめの境地に入っちゃう。

どちらもプッシュ型のメディアでありながら、モノとして残らない分、NHKのほうが分が悪いのだ。

そういう意味ではソフトウェアも同じで、パッケージがないダウンロードのみの販売は、やっぱり割高感が残るような気がする。

安心?

しばらくご無沙汰している企業の中の人と会う。だいたい同じようなことを考えている、というか同じような方向を見ているので一安心。

もっとも、こちらに近い別のところは全然そうは見ていなかったりするわけで、その辺がどうも困ったものであることだなあ、なのだけれどマーケティングとかリサーチなどからは程遠いところで近視眼的にさまざまなことが決定されているので、これはまあ、しょうがないのだろうなあ。

てゆうか、マーケティングやリサーチは個々の社員に任されていて、その結果が各種企画に反映されるという流れになっている。つまり最前線を担ってる者や兵站を担っている者が、それぞれちょっとずつズレたマーケティングとリサーチ結果を持っているわけだ。もちろんそれはお客の多様性をカバーしてないわけではないのだから、「全面的にダメよねー、それじゃ」と言いたいわけではなくて、むしろそれらの差異を束ねて「だからこっちでしょ」という大枠の方向付けがなされないことが「ダメよねー」なのだといいたいわけです。

大局における方向性がないと、ちょっと考えればわかるように、局地戦では勝てる場合もあるけど、大きな戦局で見るとがんばっても引き分けにしかならない。まあ、たとえは悪いけど派閥ばっかりの万年野党というか“とりあえず突入して自爆しとけばいいか”型テロリストというか。

4年くらい前から、とりあえず目先の金に汲々することが至上命題となっているのだから、しょうがないといえばしょうがないんだけどねー、なんてヒトゴトにしちゃまずいんだけど、それこそ大局的に見るとやっぱりヒトゴト。

Google+Amazon

某所(=http://epic.chalksidewalk.com/)によると2008年にGoogleとAmazonが合併してGooglezonになるというはなし。

ほんまかいな。

でも、そうなったらそうなったで、かなり面白いかも。“EPIC”という発想は(好むと好まざるにかかわらず、流れとしては)正しいし。ただ、そこまでパーソナライズされた世界は逆に窮屈だし退屈のような気がする。むしろ不自由のほうがより多くの創造・想像性を高めてくれるのではないかと思ったりもする。どうなんだろうなあ。

妄想と想像とバカ

某著者がはじめてIMで話しかけてきた。

最近の状況などを話し、新しく学ばなければならない(MSの)技術ってほとんどないですよね、なんていうありきたりの会話があったのだけれど、個人的にはAWS(Amazon Web Service)が面白くて、これまでのBBSホスト(いわゆる“草の根BBS”)やISPに接続することで体感してきた“つながる”ことの楽しさが、メタレベルになったような気がしていて、だから学ぶことってまだあると伝えたところ、「それはP2Pの面白さですよ」と言われた。

いまもまだ、そのとき彼が言ったP2Pのイメージがよくわからないんだけど、おれのイメージとしてはデータだけがネットワーク上を流れている世界。

ユーザーはデータをどこに(どのサーバーに、どのディレクトリに)放り込むかとか、データの型がどうだとかフォーマットがなんだとか、一切意識せずに済む入力用インターフェイスと、データ自体が相互に参照しあうことで自律的に表示されるようなアプリケーションがあればいい、という感じ。

blogだと、まだ人力でTrackBackとかを使って参照しあい、それによってデータ(とその付随的データ)が増幅していく感じがあるけれど、それをもっとデータ自体に自律化させて、ちょうどさまざまな波紋が増幅/減衰しあいいろんな姿に変わっていくさまが見られるようになると想像すると、すごい面白いし興奮する。

これはたぶん、いろんな音が鳴り響いている中で、たったひとつのフレーズなりリズムパターンによって、音楽自体が変化してゆくJazzの即興演奏の面白さに近いんじゃないか。

とすると、いまのSPAMなんて、一種のアバンギャルドJazzと捉えることもできるかもしれない。もっともいまは音楽そのものを変えるという姿勢ではなく、アバンギャルドなサウンドを排除する方向にシステムを変更しているわけだから、当分アバンギャルドJazzが認知されることはないだろうけど。SPAMに対してはSPAMで答えるというのは、総体としてアバンギャルドになるのだろうか。短いデータの交換だからジョン・ゾーン的ではあるなあ。

書いてるほうもなんだかわからなくなってきたけど。

ゆとりはデリケート

自分たちがやってて楽しくて、お客様に喜んでいただける。これをやっていくためには、パッシブになるのではなくて、先手を打っていくことだと考えています。ただ、それをやっていくためには、今の仕事がスムースに回ってアフターをやる時間的ゆとりを得ることと、そのようなゆとりを作っても食うに困らない程度の財務状態が必要になります。
なので、1.今の仕事は納期厳守 2.仕込みは半年後の開始に向けてしっかり 3.営業は常に半年後をイメージして行動 ということが全体のコンセンサスになるわけです。これの、特に1.を実現するために「コストダウン」ということを常に言い続けるということになります。ゆとりというのは、本当にデリケートで少しでも油断するとすぐに食い潰されてしまうのです。
使いたい道具を通す方法(2005年のはぶにっき)=http://d.hatena.ne.jp/habuakihiro/20050115#1105773127

そのとおりだよなあ。2年に一度シャッフルされちゃうと半年後の開始もクソもないんだけど。そういう対象から外れていることには感謝しないとマズイかもだなあ。それでもゆとりがないのは、要は目先の事象に振り回されているからなんだと考えたほうがいい。そこから導き出される結論は、目先ではなく半年後、一年後を見据えてプランを練ることだろうな。あー、プランを練らなければ。

勝ち負け

しかし、こういうグラフを見ると、世の中には確かに勝ち組と負け組みがあるんじゃないかと錯覚しちゃうね。勝ち組だの負け組みだの、そんな色分けはありえないんだけど。

だってタイムスパンをどうとるかだけだからね。むしろ、いかにして継続するか、じゃないか。継続し続けることで勝敗が決まるような気がする。まあ、なにが継続しているかがポイントだけど。IBMのハードウェア部門のように、採算が合わない部門を継続してもしょうがないという判断のもとで、採算が取れる部門を伸ばすことで“企業を”継続させることが重要だとした場合、それによってIBMは継続し続けることが可能になるわけで。

パラメータこそ重要

これは明快だなあ。ソースコードはパラメータを整理して流すためのパイプにしか過ぎないんだもんなあ。

というところでわれとわが身の職業を考えてしまう。救いはどんなパラメータをどこからどこに流すかを(ある程度)把握できるところか。

例の「高速道路」論とあいまって、これから大量生産されるコードなんかに知の創造が含まれるわけないよなぁ、ってほうが現実的見方であるような気がしています。
じゃあ知はどこにあるんだ?それはコードに渡されるパラメータにあるんでしょう。たとえばわが社の在庫管理システムは相当優秀ってことになってます。相当優秀で競争優位を生み出しているので、当然ソースコードは公開しません、ってことになるんですが、それはソースコード=ソフトウェアに知が含まれているからではなく、パラメータがソースコードに埋め込まれてしまっているからでしょう。わが社の在庫管理システムと同等のものを作りたかったら、必要なのはそのソースコードではなく、パラメータのほうです。パラメータさえ知っていれば、ソースコードなんかバイト君を雇って書かせればいいでしょう。
「サービスだけで「IT立国」は実現できない、かも」(何はなくともXML InfoSet)=http://luckypines.blogspot.com/2005/01/it.html

ブロガーとジャーナリスト

ここんとこヒマさえあれば(ないんだけど)「ブログ時評(http://dando.exblog.jp/)」という気持ちの悪いサイトを読んでいて、なんでこのサイトがこんなに気持ち悪いのか判然とせず困っていたんだけど、さっきYahooのニュースページを読んでいたら一気に疑問が氷解した。

要は、他人様の論考をセンテンスをチョイスして比較/検討した内容の記事しか投じられていないからだ。これは新潮社の雑誌『Foresight』の連載「国際論壇レビュー」で行なわれていた手法と同じ。

「国際論壇レビュー」では海外の主要な雑誌や新聞から同じテーマをサンプリングし、それぞれの国の立場を勘案しつつそれぞれの論評を紹介し、翻って日本の立ち位置を照射するという試みで、これは日本語さえろくに操れないおれには非常にありがたい連載だった。

他方、「ブログ時評」は、Webであるにもかかわらずトラックバックがあるにもかかわらず、というか、それらの仕組みにおんぶに抱っこ状態で、最終的な結論は自身の過去のメーリングリストをポイントするだけというもの。しかもご丁寧に「検索サイトを利用することで詳細なデータが得られる」だの「過去にどのような論説があったのかを知ることは重要」だの、なんというかしゃらくせぇ。おまえは寺子屋の先生かっつーの。それは「時評」じゃなくて単なる指導だろうがよ。

もちろん、だからといってその行為を完全に否定するつもりはない。というか、ある程度Webで文章を書くということの基本を誰かが示すことの必要性は認めるのにやぶさかではないのだけれど、その行為をジャーナリストというコトバに繋げて語るところがすごい違和感なのだった。

どうも、気持ち悪さの根源はここら辺にあるらしい。つまり「時評」のサイト運営者は、無数のブロガー(ってコトバも気持ち悪いんだけど)をデータマン見習い程度にしか見ておらず、そのうちのごく一部(サイト運営者のMLに載せた記事読んでいたりサイト運営者の耳に心地よい言説を展開しているブロガー)をデータマン候補としてピックアップし、その上でアンカーマンとして自身が登場するという図式が気持ち悪いのだ。

まあ、別に誰がなにをしようが知ったこっちゃないのでどうでもいいといえばどうでもいいんだけど。同じ土俵で自分の身を切るようにコンテンツをアップする切込隊長の方がよっぽどジャーナリストとしてまっとうだと思う。

CSSをカンタンに作る

CSSをエディタでポチポチ書いてるわけだけれど、おそらくもっと効率的に書く方法ってあると思う。

いまはまだCGIが吐き出すDIVやSPANタグをきちんと解析して、どんな構造のHTMLが生成されているかを目で追って検証しなければならなくて、それが非常に面倒くさいわけだけれど、これを構造を解析してくれるツールがあれば、どれほど楽かと。

Macromediaなんかはそれを目指してるんだろうけど、あれはちょっとシロートが遊ぶにはプロダクトとして大き過ぎる。

たとえばVisioなんかと連携できるようなブリッジを作ると、それはそこそこ面白いツールとして活用してもらえるんじゃないか。

正規表現用のオブジェクトがあるわけだから、構造を図で表示するエンジンとしてVisioを使い、開発言語にVBAを使用すれば、わりとカンタンにできそうな気がしてきた。

あと、COMコンポーネントにしてしまえば、汎用性も上がるし。

あー、ちょっと作ってみようかな。

って、そんな時間ないジャン!

ITとビジネス

なんらかの新技術を使ってビジネスを構築する、などという姿勢ほどおぞましいものはない。

技術は既存のビジネスを補完し補強するものでしかないとぼくは思う。ITツールの最たるものがExcelというのがそのすべてを物語っているのではないか。あくまで今ある作業を簡略化し自動化するか。それが技術の革新を生むし進化を促す。

新しいテクノロジーを学習し検証し適用するというのは、新しいビジネスを創出するためのステップではなく、新しい“作業の簡易化”という側面で語られるべきなのだとぼくは考える。なぜなら、新しいビジネスの創出は、最悪の場合その創出者しかシアワセにできないが、“作業の簡易化”は、その作業に従事する多数の人々をシアワセにし得るからだ。

それこそが、技術の一番すばらしい面だったはずだ。

にもかかわらず、シリコンバレー以降、われわれは新技術による新ビジネスの創出にのみ目を向けて、本業をおろそかにしすぎたのではないか。

もちろんすでに実業を補完/補強するためのテクノロジー援用という流れは始まっている。この流れを後押しするためには何が必要か。どんな内容であれば後押しすることができるのだろうか。

本業であるビジネスはさておき、ITでビジネスなんて、本末転倒もはなはだしい。

不意に思い出した件

不意に思い出したけど(てか仕事しろよ)、Visual Studioによって開発者がもっているべき基礎知識がカスカスのまま仕事をしているのと同様に、QuarkExpress(あるいはPageMaker、InDesign)のおかげで編集者は組版の基礎知識が欠落したまま、IllustratorやPhotoshopのおかげでデザイナは造形の基礎知識がないまま、それぞれ仕事ができちゃっている。

これ、いいんだか悪いんだかよくわからないのだけれど、とりあえず、「編集ができます」と「編集のできるツールを扱えます」とは、絶対に違うと思う。

あと、「翻訳ができます」と「翻訳のできるツールを扱えます」とは異なるだろうし、「組織をスムーズに運営できます」と「組織をスムーズに運営するツールを扱えます」というのも、やっぱり違うと思う。

[追記]

ちなみに弊社ではツールが拡充しつつありますが、いずれも使いづらいと評判(嗤)。